渋沢栄一が主人公のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の好視聴率が続いている。毎週ドラマを楽しみにしている方にはネタバレになる可能性もあるが、新刊『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』の著者である歴史家・作家の加来耕三氏に、先行き不透明な今、渋沢栄一から何を学べるのか、語っていただく。

 加来氏の著書には、幕末・明治の時代が大きく変わっていく中で、渋沢をはじめ、激変に負けず飛躍した10人の起業家が登場する。

(取材:田中淳一郎、山崎良兵 構成:原 武雄)

 「近代日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一ですが、なぜ彼はそう呼ばれるのでしょうか。その生涯で500以上の事業会社の設立や経営に携わったから、ではありません。日本最古の銀行である第一国立銀行を創設し、頭取に就いたから、でもないのです。

 渋沢が、それ以前に明治政府で大活躍したことが、きっかけになっています。

渋沢栄一。天保11年(1840年)、現・埼玉県深谷市生まれ。1840年は、明治維新のきっかけともなったアヘン戦争勃発の年だ。19歳の時、日米修好通商条約が結ばれている。28歳の時、主君の徳川慶喜は大政奉還。まさに激動の時代に生きた(画:中村麻美)
渋沢栄一。天保11年(1840年)、現・埼玉県深谷市生まれ。1840年は、明治維新のきっかけともなったアヘン戦争勃発の年だ。19歳の時、日米修好通商条約が結ばれている。28歳の時、主君の徳川慶喜は大政奉還。まさに激動の時代に生きた(画:中村麻美)

 ところで、よく歴史に学ぶと言いますが、まず、歴史から何を学ぶかが分かっていないと意味がありません。そもそも素朴な疑問として、渋沢がなぜ第一国立銀行の頭取になれたのか。その理由を探らずに、飛ばしてしまっては何も学べるものはないのです。

 渋沢は薩長土肥出身の武士ではありません。旧幕臣といいますが、(大政奉還で幕府はなくなったため)幕臣だった期間も1年足らずでしかありません。そういう人間が、どうして日本の近代経済の一番要の部分を握ることができたのでしょうか。

 それは渋沢栄一が、「明治維新の理想」ともいえる中央集権化を実現するために欠かせなかった、当時の日本において稀有(けう)な能力と手腕を持っていたことにあります。

欧米の植民地にならず、独立国としての尊厳を守る

 明治元年は慶応4年、1868年です。明治に改元されたのは同年9月。この9月に戊辰戦争で会津が落城して、今の北海道に当たる蝦夷地(えぞち)ではまだ旧幕府軍との戦闘が続いていましたが、本州が平定されたことで改元しました。ところが明治新政府が中央集権化、すなわち「廃藩置県」を実行したのはその3年後の明治4年(1871年)です。

 なぜ、明治新政府はすぐに中央集権化ができなかったのか。

 明治新政府が目指した理想は、欧米列強の植民地化政策に飲み込まれることなく、1つの独立国としての尊厳を守る、というものでした。それを実現するために維新を行ったわけですが、いつまでも藩を残していては、この目的を果たせません。

<span class="fontBold">加来耕三(かく・こうぞう)</span><br> 歴史家・作家。1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科を卒業後、奈良大学文学部研究員を経て、現在は大学・企業の講師を務めながら、著作活動にいそしんでいる。『歴史研究』編集委員。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。主な著作に『幕末維新の師弟学』(淡交社)、『立花宗茂』(中公新書ラクレ)、『「気」の使い方』(さくら舎)、『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4296104284" target="_blank">歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓</a>』(日経BP)など多数
加来耕三(かく・こうぞう)
歴史家・作家。1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科を卒業後、奈良大学文学部研究員を経て、現在は大学・企業の講師を務めながら、著作活動にいそしんでいる。『歴史研究』編集委員。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。主な著作に『幕末維新の師弟学』(淡交社)、『立花宗茂』(中公新書ラクレ)、『「気」の使い方』(さくら舎)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など多数

 徳川VS豊臣の関ヶ原の合戦と、新政府VS旧幕府の戊辰戦争を比べてみると、戦後処理の違いは明らかです。関ヶ原では、負けた西軍の大名は、例外的に領地を縮小され、生き残った大名がいたものの、多くは取り潰されました。

 ところが戊辰戦争では、旧徳川幕府も多くの領地を没収されたものの、静岡藩に封じられる形で残っています。朝敵の象徴だった会津藩も、会津藩領は没取されましたが、新たに青森に斗南(となみ)藩を立藩しています。

 新政府が明治元年から3年までにつくったのは、京都府と大阪府、東京府のほかには、旧幕府の天領や旗本支配地、旧会津藩領など朝敵の藩を潰してつくった、いくつかの県だけでした。300以上のほとんどの藩は、藩として残ったままで、全国の石高3000万石のうち、新政府が取り上げたのは800万石に過ぎませんでした。

 あれだけ近代化を急いでいた明治新政府が、なぜ藩を潰さずに残したのか。

 実は、潰したくても潰せなかったのです。当時の新政府は財源確保に苦しんでいて、お金がなかったため、潰せませんでした。仮に藩を潰して、各藩が抱えている武士を退職金も払わずにクビにして追い出したら、浪人となった武士たちは確実に暴れます。それが全国至る所で起こったら、大変なことになってしまいます。

ないはずのお金を用意できた渋沢

 さらに問題なのは、各藩が抱えていた膨大な藩札、すなわち借金です。藩札を持つ者に対して、これをなかったものとして返済しないで県に切り替えたら、その持ち主である豪商や豪農たちは暴動を起こすでしょう。破産しそうな豪商・豪農と大量に発生した浪人が手を組んだらどうなるか。その瞬間、新政府はひっくり返ったはずです。

 こうした事態を防ぐ一番いい方法は、浪人には当面の生活の面倒を見るために必要なお金を用意することです。藩札もきちんと返済する必要がありました。しかし、新政府にはお金がない。ないのですが、そのないはずのお金を用意できたのが渋沢だったのです。

 明治4年、大久保利通(薩摩藩出身)が大蔵卿を、井上馨(長州藩出身)が次官を務めていました。しかし、大久保や井上には、お金を工面するためにどうしたらいいか分からない。このとき、「公債(今でいう国債)を使えばいいのではないですか」と大久保や井上に進言したのが、大蔵省に実務者として勤めていた渋沢でした。

 藩札は、各藩の藩札の価値の平均値を出して、据え置き期間を設けた上で、30年かけて償還されるもの、というルールをつくりました。加えて、明治維新以前に発行した藩札には利息は付けないが、元本は保証する。維新以降に発行されたものについては、利息も付けると約束したのです。

 武士に対しては、版籍奉還の際に秩禄(ちつろく)処分を行って禄制を廃止して、「金禄公債」の支給に切り替えました。金禄公債の利息は5~7%。5年間据え置きにして、30年で償還されるものと決めました。

 これらを渋沢は、廃藩置県を実行して中央集権化する明治4年7月までの、わずか3~4カ月の間にすべてやってのけたのです。つまり、渋沢栄一がいなければ、日本は中央集権化ができなかったわけです。だから彼は、“近代日本資本主義の父”といわれるようになったのです。

 こうした仕組みをつくったものの、結局、国家財政のなんたるかを知らない各省の代表者たちに容れられず、明治6年、渋沢はやむなく34歳の若さで新政府の役職を辞すことになります。しかし彼は、前年の明治5年に制定された国立銀行条例にのっとって、日本初の近代的“民間”銀行である第一国立銀行を創設するのです。

 その後、設立順に番号を名乗るナンバー銀行が次々とできていきました。明治12年には153のナンバー銀行が設立されています。なぜナンバー銀行が一気に増えたのかといえば、ナンバー銀行は民間銀行でありながら、公債を持っていればその分、銀行券(紙幣)を発行できるという仕組みがつくられたからです。このシステムを考えたのも渋沢です。

小さな流れを寄り集めれば大河になる

 豪農とはいえ、もともと藍玉農家の生まれだった渋沢栄一が、こうした経済の知識をどこで勉強したのか。それは幕末に滞在したフランスです。わずか1年半のフランス滞在で、渋沢はちゃんと借金の方法まで勉強して帰ってきたのです。

 渋沢は徳川慶喜の弟・昭武(あきたけ)の随員としてフランスへ渡りました。昭武は、パリ万博出席とヨーロッパ各国訪問の後、フランスに留学する予定で、今の金額に換算して100億円近くの現金を持っていき、渋沢はその会計係だったのです。

 その縁で渋沢は、フランスの銀行家ポール・フリュリ=エラールと出会います。渋沢は彼に、「大金を持ち歩くのは物騒だ。どうしたらいいのだろうか」と尋ねます。すると、「公債を買え」と言われるわけです。

 説明を聞いて渋沢が理解できたのは、「公債とは国の借金だ」ということ。「国が借金をするなどと人前で大きな声で言ってもいいのか」と尋ねると、「恥ずかしいことではないし、公債は転売もでき、そうすることでもうけることもできる」と教えられます。そこで渋沢は、教えられた通りにやって、本当にもうけることまで経験しました。

 フリュリ=エラールからは、欧州の中で英国に大きく後れを取っていたフランスが、一気に英国に比肩する国家となることができた秘訣は、「サン=シモン主義」にあったと教えられます。

 渋沢はサン=シモン主義を「合本(がっぽん)主義」と訳します。どんな貧しい家にもわずかな蓄えはある。その蓄えを集めれば小さな流れになる。小さな流れを寄り集めれば大河になる。小さな流れから大河へと金の流れをつくるもとが、「バンク」だと理解したのです。

 幕府の崩壊を受けて帰国した渋沢は、徳川家が拝領した静岡藩で、銀行業務と商社機能を持つ「商法会議所」を設立し、合本主義を実践し始めます。すると、それが大隈重信(肥前佐賀藩出身)の目にとまって明治新政府に引っ張られるのです。

(続く)

 先の見えない今、歴史家の加来耕三氏が、幕末・明治に活躍した渋沢栄一ほか、三菱や三井、住友などの財閥を興した不屈の起業家10人にフォーカス。歴史ファン、コロナ禍で厳しい状況に置かれている事業主、不安なビジネスパーソンらに向けて、希望の気持ちにスイッチを入れてもらうべく筆を執りました。

 「渋沢栄一」「安田善次郎」「浅野総一郎」「古河市兵衛」「三野村利左衛門」「広瀬宰平」「伊庭貞剛」「大倉喜八郎」「岩崎弥太郎」「岩崎弥之助」の、苦悩もありながらの痛快な生き方から、危機を突破する力を学べる一冊です。