渋沢栄一は500社以上の会社設立に関わったことから、「日本資本主義」の父と呼ばれます。しかし、教育、病院、福祉など、社会的な非営利組織への関与はそれ以上と言われています。
 ここでは、渋澤健・鵜尾雅隆著『寄付をしてみよう、と思ったら読む本』「第4章 寄付する人 渋沢栄一に学ぶ」から抜粋引用し、栄一の社会活動家としての側面を紹介します。

 江戸時代の「七分積金」を、明治時代の初期に「養育院」の設立など社会的課題解決の財源として活用することを提案した人物が、「日本の資本主義の父」とも言われる渋沢栄一であったことはあまり知られていないと思います。

 「資本主義」という言葉を聞くと、「格差をつくる」「弱者を搾取する」「ブラック企業を生む」など、寄付文化と相容れない異質な存在であるという印象を持つ方々が多いかもしれません。しかし、そうではありません。

 寄付とは「今日よりもよい明日」を民の主導で実現させるために不可欠な活動資金です。渋沢栄一が目指したのは、民の力を合わせることによる国づくりでした。その思想は、現在の言葉で表現すれば、民の想いと行動によって、持続可能(サステナブル)で、誰ひとり取り残さない(インクルーシブ)社会をつくるということです。このような観点から、過去の話としてではなく、現在の関心から寄付のあり方に光を当ててみましょう。

「今日よりもよい明日」を生み出す投資

 寄付の成果は寄付者に還元されます。その成果はカネやモノではありません。自分は世の中のためになっている。社会貢献活動をしている団体とともに自分も成長している。ワクワクする。このように、寄付は社会貢献と同時に自分自身にプラスの効果が期待できます。 また、寄付行動によって周囲に共感の輪が広がり、それが、子どもや孫の世代へと伝わって、レガシーとして残っていく場合もあります。つまり、寄付とは一度お金を出して終わりなのではなく、さまざまな成果のリターンが期待できる、立派な「投資」と言うことができす。

 著者・渋澤健が取締役会長を務めるコモンズ投信株式会社は、長期投資に共感する人々が寄り集まれる「コモン・グラウンド」を築くために設立した独立系の投資会社ですが、事業は両輪で動いています。

 片方は投資先企業の価値創造によって経済的リターンを期待する長期的な資産運用です。もう片方は社会活動への応援と助成により社会的リターンを期待する事業です。

 寄付は単なる出費ではなく還元、つまり、リターンがあるもの。目に見える金銭的な、物理的なリターンではないかもしれませんが、社会的なリターンです。リターンを期待するのが投資ですから、コモンズ投信の「長期投資」というのは、企業への投資、社会起業家への投資の両輪で成り立っているわけです。

滴も集まれば大河になる

 経済的リターンと社会的リターンの合致という考え方は、渋沢栄一の思想と共通しています。渋沢栄一は「日本の資本主義の父」と呼ばれていますが、本人は「資本主義」という言葉を使っていませんでした。代わりに「合本主義」や「合本制」という言葉を頻繁に使っていました。

 渋沢栄一は日本初の銀行「第一国立銀行」を創設しました。日本初の銀行なので「第一」です。「国立」という言葉が使われていますが、国有機関ではなく、民間出資で設立された会社です。初めて日本の法律で定められた存在という意味での「国立」、また、設立のロールモデルとなった当時のアメリカの「ナショナル・バンク制度」の直訳の意味があったようです。

 また、「銀行」は現在の時代では当たり前の存在です。しかし、明治6年(1873年)には「銀行」という言葉は存在しておらず、新たに造られたものです。つまり、この時代、銀行とは当時の日本人が見たこともなかった「スタートアップ・ベンチャー」に過ぎませんでした。

 この新しいベンチャーの存在を日本社会に知らせるために、株主募集布告で渋沢栄一はこのように述べました。

 「銀行は大きな河のようなものだ。銀行に集まってこない金は、溝に溜まっている水やポタポタ垂れている滴と変わりない。せっかく人を利し国を富ませる能力があっても、その効果は現れない」

 つまり、ポタポタと垂れているだけでは、力はありません。けれども、その一滴一滴が集まって、たとえばコップの中に溜まって水位が上がり始め、それが縁からこぼれ落ち始めれば、そこには小さな小さな流れができます。その小さな流れが他の小さな流れと一緒になれば、流れがちょっと大きくなって勢いを増します。このようにさまざまな流れが合流し続ければ、勢いも増して、下流ではいずれ大河となります。大河になれば、そこに大きな原動力が生まれます。

 渋沢栄一の講演集として大正5年(1916年)に出版された『論語と算盤』という本には、次のような一文があります。

 「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」

 100年くらい前の言葉ですが、ここには時代を超えて現在も通じるメッセージがあります。一個人や一企業が利益を独占するのではなく、社会に還元してみんなで共有することで、国が全体的に豊かになり、築いた富が永続するということです。

 ただ富を共有するといっても、経済的に恵まれておらず食べ物がない人に、そのまま食べ物を与え続けるということではありません。弱者の自立を促すことが大事であるということが、渋沢栄一の考え方です。

600の非営利組織に関わる

 渋沢栄一は、およそ500の会社設立に関与したことから、「日本の資本主義の父」と言われるようになりました。一方、それほど知られていませんが、教育、病院、社会福祉施設、民間外交など社会的な非営利組織の形成への関与はおよそ600あると言われています。数としては、社会的な非営利活動の関与のほうが経済的な会社の関与より多かったのです。

 渋沢栄一の研究者である、文京学院大学の島田昌和先生の調べによると、教育分野において渋沢栄一が支援した教育機関は、実業教育48校、女子教育27校、その他を含むと164校にもなります。中でも代表的な関わりが一橋大学でした。前身である商法講習所が、管轄であった東京府会によって1878年に予算を半減され、1881年に廃校の危機に陥った際、渋沢栄一は各方面から積極的に寄付を募ったことで日本初の商業高等教育機関として後の一橋大学へと持続させたのです。

 また、早稲田大学が1882年に創設されたときから、渋沢栄一は寄付支援者でした。1917年に初代学長と次期学長の抗争で学生まで巻き込んだ「早稲田騒動」では、事件の解決に向けて、早稲田大学の創設者の大隈重信から調停を依頼されています。

 男尊女卑の考えが色濃い時代において、渋沢栄一は女子教育にも力を入れていました。成瀬仁蔵の情熱によって日本女子大学が1901年に設立された際には、発起人として名を連ね、会計監査やさまざまな委員となり、また多大な寄付をして運営を支えました。開校後は外国からジャーナリストや大学関係者、実業家や国家元首などさまざまな客人たちを学校に招き、案内もしています。

 また、伊藤博文、岩崎弥之助(三菱二代目)とともに女子教育奨励会設立に参加して評議員となり、1888年に奨励会によって東京女学館が開校すると、寄付推進活動に尽力した渋沢栄一は会計監督、館長、理事長を務めました。

 医療関係においては、1882年に設立された東京慈恵医院(現東京慈恵会医科大学附属病院)が1907年に経営困難に陥ったときに、開院来、支援者であった渋沢栄一の勧誘などにより、70名ほどの資産家・華族や900名ほどに上る正会員からの拠金が集まり、東京慈恵会医院に改名して経営改革が図られています。

 その成果に貢献したのが資産運用でした。渋沢栄一が期待したように、改革によって株式の配当金や銀行預金の利子が全収入の大きな部分を占めるようになりました。お金の「ストック」をつくったので、有志や会員から新たに拠金を集める必要がなくなったのです。

 また、1902年に設立された現聖路加国際病院では会計監督や評議員長を務め、1923年の関東大震災で病院が被害を受けた際には支援の手を差し伸べました。その後の病院の事業拡張のため、米国の支援者に寄付金を募る活動も行いました。

関東大震災でもいち早く救援活動

 大震災が発生したとき、83歳だった渋沢栄一は、兜町に設けていた事務所にいました。その後、資産家の家を焼き討ちするというデマが流れたようですが、「わしのような老人は、こういうときにいささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳が立つようなものだ」と、数多くの震災救護・救援・復興事業を積極的に進めました。

 地震が発生してから1週間後くらいには、約40名の実業家が東京商業会議所(現東京商工会議所)に集まりました。座長を務めた渋沢栄一は、民間有志による救護・復興に関する組織を提案したところ、同日に貴族院・衆議院議員有志も加わって、大震災善後会が結成されました。

 民間であるからこそスピード感を持って動くことができる、そして、苦境に追い込まれた多様な立場の人への細かな配慮ができると渋沢栄一は考えたのです。善後会の目的を罹災者救済と経済復興と定めて寄付金の募集を始め、孤児院や労働者のための託児所の設置、そして罹災外国人の支援など、多くの事業に資金を配分しました。

渋沢栄一が設立し、初代院長になった養老院跡に建立された銅像(東京都板橋区)PIXTA

 「七分積金」により設立された養育院については、第3章でも紹介しました。これは明治維新の混乱などによる困窮者の救済のため、1872年に設立された日本で最も古い社会事業施設で、渋沢栄一は初代院長を務めます。1872年は渋沢栄一が日本初の銀行である第一国立銀行を立ち上げる1年前です。亡くなる1931年まで渋沢栄一は養育院の院長を務めていたので、生涯で一番長いポストは実は銀行ではなく、養育院の院長だったのです。

 『論語と算盤』の「防貧の第一要義」という節で、渋沢栄一はこう唱えます。 「弱者を救うは必然のことであるが、さらに政治上より論じても、なるべく直接保護を避けて防貧の方法を講じたい」

 これは「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」という考えであり、養育院では弱者への救済や保護に留まることなく、自立を意識して職業訓練なども行っていました。

 1931年11月11日に渋沢栄一が亡くなったお通夜では、このようなエピソードがありました。家が弔問客で溢れているところ、夜が更けても庭の陰に中年男性がポツンと立っているのに家人が気づきました。たずねてみると、その男性は少年の頃、孤児として養育院で育てられたと言いました。

 そのときの院長であった渋沢栄一への恩情が忘れなくて、弔問に来たけれども名乗って出るほどの者でもないと思い、庭から通夜していたと言うのです。小さな町工場の経営者になっていたその男性は邸内に案内されると、栄一の前で長く手を合わせたそうです。

 寄付や社会事業とは未来への投資。この考え方は時代の境界線を越えます。

 このように渋沢栄一が社会的弱者へ手を差し伸べる情愛は、母親の影響が大きかったと推測できます。母親については「非常に人情の深い慈愛に富んだ女であった」と本人自ら述べています。

 ハンセン病の女性が通りすがるのを見かけると、渋沢栄一の母は話しかけたり、宴会の食べ物を分けてあげたり、一緒に風呂に入って背中を流してあげたと言われています。

 また、渋沢栄一が数々の社会的事業に携わってきたのには、海外における体験からも大きな影響がありました。渋沢栄一が民による国づくりである資本主義のお手本を学んだのはフランスです。1867年に徳川慶喜の弟・昭武を幕府の代表とするパリ万博派遣団の経理係として随行したことが、元尊王攘夷派の若手の目を開かせました。

 しかし、19世紀から20世紀にかけての世界のパワーバランスは、産業革命でリードしていたヨーロッパから、経済大国として台頭していたアメリカへシフトしていく時代でした。明治維新の数年前の1861年から1865年にかけての南北戦争が終わると、アメリカは国力を確実につけていました。

 渋沢栄一はこうした中、日本もこの大国ときちんと関係を築かなければいけないと、4回の渡米(1902年、1909年、1915年、1921年)で毎回、アメリカの大統領(ルーズベルト、タフト、ウイルソン、ハーディング)と面会しています。渋沢栄一以外にアメリカの現役大統領と何度も面会した日本の経営者はいないかもしれません。

カーネギーに共感

   もっとも、アメリカで印象に最も残ったのは、政治家ではなく、実業家であったようです。たとえば、「カーネギー氏はその身に幾十億という財産を持ちながら、ほとんどこれを意に介しておらぬがごとく、その事業経営に全力を注ぐはすなわち天の使命に従うかのごとくに考えて、完全にこれを果たさぬ以上は、この世に対して、その本分を完うしたものとは言えぬという、崇高の観念を持っている」と評しています。

 アンドリュー・カーネギーはスコットランドからの移民で「鉄鋼王」と呼ばれた「アメリカン・ドリーム」の代表的な大実業家であり、当時ではジョン・ロックフェラーと並ぶ史上最高の富豪でした。現在で言うIT業界のトップ長者のような存在でしょう。カーネギーは、事業で成功を収めた富の90%を教育や文化に寄付したフィランソロピーの巨人でもあります。ロックフェラーも築いた富の半分くらいを寄付したと言われています。

 カーネギーも渋沢栄一も、成功者としての責任を公に示すべきと考えていました。一方、渋沢栄一が多くの会社や社会的事業の設立に関与したことは、国力を高めるというライフワークを貫いた側面もあったと思います。

 ペリーが黒船に乗って来航したのは渋沢栄一が13歳のとき。このままでは日本国は西洋社会に飲み込まれるという危機感が、若き渋沢栄一の心に植え付けられたと考えられます。国力を高めることは当時の日本においてサステナビリティどころか、サバイバルのための急務でした。

 そして、国力を高めることとは、当時の時代においては富国強兵です。国富を高めるためには、軍艦や大砲など軍備の必要がありました。ただ、新明治政府で官僚の仕事を経て実業界へと進出した渋沢栄一は、国力を高める軍備の財源はどこから来るのかと考えました。

 当時の日本はあまりお金の蓄えがない国でした。国の信用力も乏しいのでお金を借りて財源を確保することも難しかったのです。当時の日本の、この壮大な社会的課題に対して、渋沢栄一が考えた解決策は、商工業者の存在感を強めること、つまり、今の言葉で言えば、民間力を高めるということでした。

 われわれ民間人が価値あるものを世の中に提供し、そこに対価が支払われることでお金が社会に循環して財源が生まれてくる。つまり、民間力を高めなければ、国力が高まるはずがないという考えです。

 ご紹介したように渋沢栄一は自分から寄付を提供するだけではなく、寄付のファンドレイザーとして各界から寄付を募っていました。それについて、笑い話があります。渋沢栄一の寄付の呼びかけに応じて多額の寄付金を出すひとりに、服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者、服部金太郎がいました。

 ある日、服部金太郎がクラブで将棋を指していたところ、渋沢栄一がふらりと立ち寄って言いました。「いまイタリアの骨相学者にみてもらったら、私は百歳まで生きられるそうだ」。それに対して、服部金太郎は、「そりゃ大変だ!」と答えました。 「渋沢さんに百歳まで生きられては、これから先にどれほど寄付金の御用があるかわからない。将棋どころではない。もっと稼がなくては!」