『利生の人 尊氏と正成』の創作秘話を著者の天津佳之さんに聞きました。天津さんの言葉から、また思いのこもった語り口から、この作品の読みどころ、新しさが垣間見えてきます。

──この物語は、鎌倉末期から南北朝の動乱へと移りゆく時代の物語です。この時代の面白さからうかがわせてください。

 権力を巡る争いとなると、たちまち日本全土を巻き込んだ時代だったということです。この後、応仁の乱を経て戦国時代になると、権力の単位が大名の領国になり、合従連衡でモザイク的にいろいろな勢力が各地に散らばるのですが、この時代はまだ、国の方向性が決まる時には、誰も傍観者ではいられなかった。力を得るには、幕府を選ぶのか、朝廷を選ぶのか、北朝を選ぶのか、南朝を選ぶのか。それ以前に、自分が生き残るために誰についていくべきか。情報もほとんどない中、ひとりひとりが絶えず決断しなければならなかったのです。

 今を生きる私たちとも共通点があるように思います。あらゆる情報があふれ、個人で発信することも容易にはなりましたが、自分が社会のどこに立脚しているかが実感しにくく、先もなかなか見通せない時代です。個人の芯の部分があらわになるという意味では似ていますね。

──鎌倉幕府は、貴族による摂関政治が衰えて、各地の武士の集散によって成立しましたが、幕府は東で武士を束ね、西には帝がいる京都があった。北条得宗も征夷大将軍に皇族をかつぎました。この物語の後のことですが、足利三代将軍・義満の時代に武家によって権力がひとつになりますね。

 後醍醐天皇が国を統治する親政が機能しなかったことが、天皇が権力から離れて象徴的な存在に変わったターニングポイントだと見ています。南北朝の動乱以降、社会の主役は完全に武士になりました。禅などの武家的な文化が発達していく一方、弱体化する公家は自分たちの文化の保全に向かいます。有職故実や古今伝授です。結果として、みやびな宮廷文化が純粋なかたちで後世に継承されることにもなりました。

──時計をこの物語の時代に戻しましょう。主人公は、足利尊氏と楠木正成ですね。

 最初は「項羽と劉邦」のような「尊氏と正成」にしたいと考えていたのですが、書いていくうちにふたりを支える後醍醐天皇の存在感が高まりました。

──後醍醐天皇に対して、ふたりは長らく、忠臣=正成、逆賊=尊氏という対立の構図で語られてきました。この物語では三人が禅宗の同門だったという設定になっているのが新鮮です。

 この設定は、実は小学生のころの記憶が元になっています。幼い頃から家族でよく京都に旅行したのですが、嵯峨野の天龍寺を訪れた時だったか、お坊さんが「尊氏と正成と後醍醐天皇は同門だったんだよ」という話をしてくれたんです。後になって調べてもそんな話はどこにも出てこない(笑)。さすがに子供だったので、そのお坊さんがどんな人で何を根拠に言っていたのか、今ではさっぱりわからないのですが、その記憶はずっと残っていました。

 加えて、やはり子供の頃に読んだ日本史の学習まんがに掲載されていた、正成の息子・楠木正行の首塚である五輪石塔と、尊氏の息子・足利義詮銘の宝筐院塔が並んで建っている、嵯峨野の宝筐院の写真もずっと覚えていました。だから、私の中では『利生の人』のために着想した設定ではなく、もともとこう考えるのが自然だったんです。

──その設定では、足利尊氏はどういう人になりましたか。

 吉川英治先生が『私本太平記』を書いた後の随筆で、南北朝時代の「逆賊」として偶像化が進んだと指摘しました。だからなのか『私本太平記』では、正義感のある悩みの人として、英傑的な優等生として尊氏が描かれました。山岡荘八先生の『新太平記』などでは、打算的で知恵のはたらく悪辣な人物として描かれています。

 私は『梅松論』(作者不詳の南北朝時代の軍記物語で、後醍醐天皇側から書かれた『太平記』に対し、尊氏側から史実を記したとされる)に出てくる夢窓疎石(尊氏が帰依し、後醍醐天皇の菩提を弔うための天龍寺を開山した臨済宗の僧)が語る尊氏像が元になっています。

 そこには尊氏という人間を表す三つの話が出てきます。ひとつ目は「戦の時に笑みを浮かべる」。しかも「例の笑み」と記されていて、かなり変な表情だったのではないか(笑)。ふたつ目が、慈悲の心を持ち、こだわりなく敵味方を受け入れる。みっつ目が、物惜しみをしない。自分に贈られたものをどんどん人にあげてしまう。

 『太平記』以来語られてきた尊氏は、唐突に切腹すると言い出したり、突然出家してみたり、周囲がついていけない人物でした。感情のふれ幅が大きく、精神的な障害があったと考える歴史学者もいました。私は尊氏を、もともと情動が薄く、何を考えているのか外からほとんどわからない人と捉えました。「戦の時に笑みを浮かべる」のも、慈悲の心や大らかさから来ているのではないか、と。尊氏にわかりやすい英雄像はあてはまらないと考えました。

──楠木正成は、帝の忠臣としての“楠公伝説”が皇国史観とともに長らく語られ、戦時中は戦意高揚にも利用された人です。尊氏と同門という設定ではどういう人になりましたか?

 大忠臣、軍略の天才、突然変異的に登場した抜群に有能な地侍……私より年上の方に話を聞くと、“楠公さん”が好きという人は、“超人”の正成が好きなんです。また河内の土豪という田舎侍的なイメージも払拭したかった。私は正成が好きなので、NHK大河ドラマの『太平記』で武田鉄矢さんが演じた正成はあまりに違うのではないかと(笑)。

──尊氏を演じたのは真田広之さんでしたからね(笑)。

 私は生身の人間として正成を登場させたかった。私なりのかっこいい正成、それは地に足をつけて理想を語り、その理想を叶えるために現実で悩み抜いて行動した人です。優れた軍略家としての側面では、正成は兵法書をきちんと修めた人ではないかと考えました。当時もすでに中国から兵法書は入ってきていますが、読める人がほとんどいなかったはずです。そういう野卑な時代にあって、けっして“超人”ではなく、理知的で求道的な人物ではなかったかと。

 また、鎌倉幕府討幕から建武の新政まで、正成は国家観を持って理想を追求した人だったのではないか。ネタバレになるのでこれ以上は控えますが、そうでないと、なぜ正成が湊川の戦いで散ったかがわからない。この時代、生き残ることがすべての人たちは国家観など持ち得なかったはずです。では、正成の国家観とは、と突き詰めて考えていくと、『太平記』では聖徳太子の未来記の話で正成が出てきますし、出生地とされる河内の辺りは聖徳太子信仰が強い地域ですから、聖徳太子の説く「和」と結びつきました。

──では、ふたりの同門としての後醍醐天皇はどういう帝になりましたか?

 『利生の人』の後醍醐天皇をひと言で表すと、掲げた理想はすばらしかったが、まったく人に恵まれなかった帝です。帝はどうしても受け身にならざるをえないので、書くのは難しかったのですが、私の中では昭和天皇が重なります。事にあたっては考え抜き、人の意見もできるだけ聞こうとつとめたけれども、自分が考えるようにまわりは考えてくれない、動いてくれない。ついには心ならずも戦を起こさざるをえなかった。しかもまわりの暴走で戦を終わらせることもできなくなってしまったのではないか、と思いたいのです。

 そうでないと、京都を脱出して吉野で南朝を立てる辻褄が合わないように思います。最後まで仕えた正成は言うに及ばず、“逆賊”とされた尊氏も後醍醐天皇が好きでした。実際、足利幕府成立後も皇族としての高い位は保障していましたし、没後は菩提を弔う天龍寺までつくった。

 後醍醐天皇の悲劇はつまるところ、まわりが決めたことを自分の決めたこととして綸旨を発さなければならない立場だったことではないでしょうか。これまで語られてきた独善的な暗君ではなく、民主的で悩む天皇として捉えました。

――天皇が民主的で悩むのですか?

 日本の歴史は古事記・日本書紀までさかのぼって考えないとわからない。『利生の人』でも、重要な場面で日本書紀から引用しましたが、始原からの流れの中に後醍醐天皇を置いてみたのです。神武天皇の建国の理想にはじまり、仁徳天皇の「民のかまど」の逸話など、日本の統治者である帝には古来、おおみたから(国民)を尊重する文化がありました。

 先ほども述べた聖徳太子の「和」もそうです。冒頭の「和を以て貴しとなす」で知られる憲法十七条も、よく読むと、仲良くしろとは言っていない。第一条は「然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成」と続きます。「上司と下僚とが、にこやかに睦まじく論じあえれば、おのずからことは筋道にかない、どんなことでも成就するであろう」(中公文庫版:井上光貞監訳・笹山晴夫訳)。議論することが大事で、意見は対立してもいい。あるいは、古事記で天岩戸から天照大御神が出てきた時に、「八百万の神、共に議りて」今後のことを決めたとあります。「議る」は「はかる」です。みんなで議論して決めようと。これが日本の文化の特徴だと思っています。後醍醐天皇はこの古来の文化を理想としたのですが、まったく具現化できなかった。

──後醍醐天皇は文化的な面でいえば、のちに禅宗を中心にして京都で花開く、東山文化、北山文化の種をまいた人でもありますね。

 禅宗は鎌倉幕府とすでに結びついていましたが、全国的な広がりがあったかというと疑問です。建武の新政を揶揄する有名な二条河原の落書でも、禅宗はからかわれる対象でした。しかし後醍醐天皇が国師号(朝廷から禅宗・律宗・浄土宗の高僧に贈られた称号)を特に禅宗の僧にたくさん出し、尊氏も後醍醐天皇の志を後世につなげようと五山の制を定めるなど禅寺を篤く保護しました。禅の思想に由来する茶の湯、生け花、水墨画、能楽、はては建築や作庭などにも禅の思想的な影響は及び、日本独自の美意識となります。「わび・さび」の文化と言われるものです。

 禅宗は中国から入ってきましたが、この時期が日本化のターニングポイントだったのではないかと考えています。仏教的な定義は難しいので、あくまでも個人的な解釈ですが、中国の禅宗では個人が悟ることが重んじられます。それが日本に入ってくると開かれたものになり、「みんなで悟ろう」となる。そうして「利生」という言葉に新たな意味が生まれたのではないかと考えているのです。

 この時期、僧では夢窓疎石がいて、禅宗を積極的に支えた後醍醐天皇と尊氏がいた。安国寺利生塔を日本各地に建てたりして禅宗を制度化し、日本のすみずみまで伝道者が移動していきました。経済活動も人やモノの流れによって活発になった頃ですから、文化的にもこの時代が起点となって発展していったことは多いと思います。

──禅宗をモチーフにする面白さはありますか。

 禅宗の特徴のひとつに、「遍参(へんざん)」があります。禅宗にはいろいろな派がありますが、派を越えて修行に行くのです。だから人的な交流が盛んです。さらに遍参を促進させるのが「安居(あんご)」です。夏になると草や虫を踏みつぶさないように、殺生しないように、と禅宗の人たちだけで一カ所に集まります。こういった場で、思想の交流も活発に行われていたのではないでしょうか。

 もうひとつ面白いのは、禅宗には肉体的な逸話がとても多いことです。臨済宗の開祖の臨済が悟りを開いた時の「黄檗三打」は、殴って悟りをひらく。悟りの証を表すのが、殴り返すことなんです(笑)。雪舟の水墨画『慧可断臂図』では、自分の覚悟を示すために腕を切って達磨に見せて、何も言わない達磨の姿に悟りを得る場面が描かれています。どちらもエキセントリックですが、私は『利生の人』のクライマックスで、黄檗三打へのオマージュのシーンを書きました。

――この物語の主題を象徴するシーンなので、直接読んで感じてもらいたいですね。最後に、今後書きたい人物や時代などはありますか。

 日本の文化形成のターニングポイントに強い興味があります。今作は禅宗が日本文化に影響を及ぼしていく起点を描きましたが、平安時代にも、幕末にも、そうした起点を見つけています。今作で聖徳太子の「和」について書いたので、いつか推古天皇の時代も書いてみたいですね。