『教養としてのAI講義』における、東大AIセンター教授 松原 仁 氏による「解説」を以下に全文公開します。本書の狙い、内容構成、読みどころ等を知っていただければ幸いです。

解説 松原 仁   人工知能はどこから来てどこまで行くのか

 メラニー・ミッチェルによる『教養としてのAI 講義』(原題は“Artificial Intelligence: A Guide for Thinking Humans”、以下本書)の位置づけを明らかにするためには、まず彼女の師匠であるダグラス・ホフスタッターについて説明することが必要であろう。ダグラス・ホフスタッターは1945 年生まれで大学や大学院では数学や物理学を学び(彼の父親ロバート・ホフスタッターはノーベル賞を取った物理学者である)、人工知能の研究者となった。彼を有名にしたのは1979 年に出した“Godel, Escher, Bach: An Eternal Golden Braid”(『ゲーデル、エッシャー、バッハ あるいは不思議の輪』野崎昭弘・はやしはじめ・柳瀬尚紀訳 1985 年)という本である(英語ではGEB と略される。日本ではゲーバー本と呼ばれる)。数学者のゲーデル、だまし絵のエッシャー、作曲家のバッハという分野の異なる3 人の名前が並ぶ変わった題名であるが、彼らの仕事には自己参照という共通点があり、その自己参照こそが知能の本質に関わっていることをゲーバー本は語っている。

 ホフスタッターが30 代の前半という若さで書いたゲーバー本は大きな話題となり1980 年のピューリッツァー賞を受賞し、(言葉遊びがたくさんあって翻訳が難しいにもかかわらず)世界中の多くの言語に翻訳された。これまでに出版された人工知能関係の本でベストと言って間違いないので、まだ読んでいない方は本書を読んだ後でぜひゲーバー本も読んでほしい(ただし分厚い本なので読み通すにはそれなりの覚悟をしておく必要がある)。本書はゲーバー本を読んでいなくても問題なく読めるが、読んでから読み直すとさらに味わい深いはずである。世界中でゲーバー本を読んで人工知能研究者を目指した人がたくさんいると言われている(解説者はゲーバー本を読んだときにすでに人工知能研究者を目指していたが、読むことで自分の判断が正しいと確信して前に進むことができた)が、メラニー・ミッチェルもその一人である。ちなみにホフスタッターの弟子としては心の哲学を専門とする(「哲学的ゾンビ」という概念を提唱した)デイヴィッド・チャーマーズも有名である。

 ホフスタッターのゲーバー本以外の本としては彼がデネットと編集した“The Mind’s I”(邦訳『マインズ・アイ』)も素晴らしい。心や知能にまつわるさまざまな著者の論文、エッセイ、小説などを集めたアンソロジーで、人工知能を考える上で参考になる論点がちりばめられている。ゲーバー本よりもこちら(マンザイ本と呼ばれる)の方がとっつきやすいかもしれない。この解説を書いている時点で邦訳が絶版になっているのが残念である。


ミッチェルとホフスタッター

 ミッチェルはホフスタッターの下で学んで彼といっしょにCopycat という類推のモデルの研究を行い、その専門書も出している。師匠のホフスタッターがそうだが、弟子のミッチェルも本を書くことが得意でこれまでにも複雑系や遺伝的アルゴリズムの優れた本を書いている(邦訳『ガイドツアー 複雑系の世界: サンタフェ研究所講義ノートから』、『遺伝的アルゴリズムの方法』)。ミッチェルは類推というホフスタッターの興味の中心にある研究テーマをいっしょに手掛けたこと、人工知能にまつわる優れた本をホフスタッター同様に何冊も出していることから、解説者としては彼女がホフスタッターという師匠の思いをもっともよく継いだ一番弟子と見なしている。

 本書は人工知能がどういう経緯を経て現在の3 回目のブームを迎えたのか、進歩した現在の人工知能をどう捉えればいいのかをとてもわかりやすく述べている。さすがホフスタッターの一番弟子の面目躍如というところだが、もっとも思いを継いでいるとはいえ、当然のことながらミッチェルは師匠とすべての見方が同じではなく、たとえば現在の人工知能をどう受け入れるかのスタンスはかなり異なっている(ミッチェルはホフスタッターよりも素直に受け入れているように読める)。


本書の位置づけ

 本書は2014年にミッチェルがホフスタッターのお供としてグーグルを訪問したところから始まっている。グーグルは人工知能の研究開発で世界の最先端を走っていて、膨大な金額の予算を人工知能にかけており(一企業で日本政府の予算をはるかに超えている)、世界中の優秀な人工知能研究者を集めている。集まっている研究者は学生のころにゲーバー本を読んだ(そして人工知能研究者を目指した)人が多いので、彼らにとってホフスタッターは可能なら一度会ってみたいスーパースターのような存在である。

 現在の人工知能は3回目のブームを迎えており、そのブームは本書で仕組みが明快に説明されている深層学習がもとになっている。グーグルの人工知能研究者のほとんどはこの深層学習の専門家である。深層学習は人間の神経回路を模倣するところから始まったとはいえ人間の思考方法とはまったく異なる仕組みで動いている。

 ホフスタッターの関心は人間の思考方法を理解することにある。しかしホフスタッターも深層学習が強力でありそれまでの人工知能ができなかったことをかなりうまくできるようになったことを認めざるをえない。ホフスタッターは音楽の素養がある(ゲーバー本はバッハをはじめとして音楽的な内容が豊富である)ので、特に音楽で人工知能が彼の予想をはるかに超えたスピードで進歩していることに衝撃を受けているのがわかる。目標である人間の(偉大な能力である)知能に人工知能が部分的にではあれ迫りつつあることを人工知能の研究者として喜びつつも、人間の知能はもっと近寄りがたい目標であってほしい(永遠にとは言わなくてもまだしばらくは不可侵の存在であってほしい)と願う複雑な心境なのであろう。ミッチェルはグーグルの研究者との対話で戸惑う師匠を見て混乱したと正直に書いている(師匠がなぜ受け入れられないかわからなかったのである)。

 人工知能が3回目のブームになって人工知能に関する本は山のように出ているが、本書の記述の正確さとわかりやすさは群を抜いている。解説者が何百冊以上の本を読んで得た人工知能の知識を、本書1 冊を読むだけで得ることができる。人工知能の現状を正しく評価することはとても難しい。ブームのときは過大評価され、冬の時代は過少評価される。今は3 回目のブームなので過大評価されている。深層学習を代表とする機械学習の技術がこの調子で進歩すれば近い将来に人間のような汎用人工知能が実現するだろうという楽観論である(いわゆるシンギュラリティが実現するということである)。


本書を読めば人工知能の凄さと脆さがわかる

 ミッチェルは深層学習によって画像認識やゲーム情報学や自然言語処理が劇的に進歩したことを素直に認めつつ、それを延長すれば人間のような汎用人工知能が実現するという楽観論を明確に否定している。彼女が人工知能に困難な問題として取り上げたのが意味の理解である。深層学習は意味を理解せずに答を出している。そのために意味を理解している人間なら決して騙されないことに騙されてしまう。人工知能は疑わないという危うさがある。本書を読めば人工知能の凄さと脆さがわかる。「私たちはまだ、はるか、はるか遠くにいる」のである。

 最後の章は師匠がゲーバー本で取り上げた質問にミッチェルが回答している。彼女が書いているように師匠へのいいオマージュになっている。ミッチェルはこの回答の詳しい説明としてそれまでの文章を書いてきたのではないかと思われる。その意味で本書はミッシェルとホフスタッターの共著なのであろう。