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【最終回】焦りを起爆剤に! 世界の偉人たちが人生の黄昏に感じた思い(1/7ページ)

2016.12.22

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 この間明けたと思ったばかりの2016年も、早くも年の瀬が迫り、今年も残すところあとわずかとなってまいりました。2016年の年初に始まった本コラムも、2016年とともに最終回を迎えることになりました。

 そして、筆者も今年で五十路を越え、「人生の終わり」を意識しはじめると、半世紀をすぎても何ら為さざるを嘆くと同時に「残された時間」で何ができるかを考えるようになります。そこで、約1年にわたってニュースを追ってきた本コラムですが、最後は趣向を変えて、「世界の偉人たちが人生の黄昏に感じた思い」をテーマとして筆を興したいと思います。

劉備の場合

 歴史上の偉人たちも同じ人間、やはりこうした心境に陥った者も多く、たとえば『三國志演義』の主人公として有名な劉備[字:玄徳](以後、[  ]内は字)も、そのうちのひとりでした。

 彼はもともと貧しいムシロ売りの青年にすぎませんでしたが、24歳のとき、黄巾の乱が勃発したことで、彼の人生は大きく変化します。関羽[雲長]、張飛[益徳]らとともに「漢朝復興」を掲げて決起し、諸国を転々として戦い続けることになります。

 しかし。

 遮二無二各地を転戦してやっと手に入れた地位がたかが「県尉(警察署長)」。それすらすぐに失い、つぎに手に入れた地位が「県丞(副市長)」。これもすぐに失い、つぎに手に入れたのが「県令(市長)」。そしてこれもすぐに失い、次にようやく手に入ったのが「州牧(県知事)」でした。

 このとき劉備、34歳。まさに文字通り「三歩進んで二歩下がる」という人生を歩みながらも、苦節10年、ようやく徐州牧にまでのしあがった彼ですが、それもアッという間に呂布に奪われ、すったもんだののちこれを取り返すも、曹操に追われ……。結局、何もかも失って、それからは長く流浪の身となります。

 まずは袁紹の下で客将(居候)させてもらったものの、ここが居づらくなると、劉表の下へ走り、荊州の田舎(新城)でしがない肩身の狭い客将のまま、ここで7年もの間、鬱々とした日々を過ごします。

 光陰矢の如し。

 月日はアッという間に過ぎ去り、ある日、劉備がふと太腿を見れば贅肉がつき、老いさらばえた自分に愕然となります。

――嗚呼! 若き日、漢朝再興の志を立てながら、いまだ何事も為さざるまま、かくも老いさらばえるとは!

 いわゆる「髀肉(太腿についた贅肉)の嘆」です。

 人生というものは、ただ漫然と生きている者にとっては長く感じるかもしれませんが、何かしら「事を興そう」「成し遂げよう」とする者にとってはあまりにも短い。24のときに大志を立て、四半世紀にわたって諸国を転戦してまわり、もう50に手が届きそうになっているというのに、いまだ居候の身。人は、老い先が見えてくる50前後になっても人生の成果が現れないとき、誰しもこうした思いに駆られるものなのかもしれません。

 しかし、まさにここが人生の岐路で、ここで萎えてしまうのが凡人、一念発起するのが偉人です。劉備はここで腐ることなく、人材発掘に力を入れ、この「髀肉の嘆」の直後、諸葛亮[孔明]を得ます。

 時、建安12年。西暦でいえば207年。劉備の“昇龍の勢い”はまさにこの「嘆き」の瞬間から始まりました。

 翌208年には「赤壁の戦」が起こり、これを契機として劉備は荊州四郡を手に入れます。さらに214年には、益州まで陥とし、ついに事実上の三国鼎立を成し遂げました。

(写真:PIXTA)

 あの“嘆き”からわずか7年後のことでした。

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