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家康の作戦? なぜ「東海道五十三次」の終わりは三条大橋なのか(3/5ページ)

2016.06.27

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三条大橋から見える「三条河原」は有名な処刑場だった

 せっかく大坂まで伸ばしたのに、なぜ東海道五十七次は栄えなかったのでしょう。そのヒントは、ぷっつりと人の流れを止めた三条大橋にあります。実はこの三条大橋からは、秀吉の時代に「三条河原」と呼ばれた処刑場がよく見えるのです。

 三条大橋は天正18年(1590年)、豊臣秀吉が京の石柱の整備を行ったときに改修された橋です。その後、近隣の川岸は「三条河原」と呼ばれ、処刑やさらし首の場とされました。歴史上の人物の処刑やさらし首も、ここで行われています。

・文禄3年(1594年)、石川五右衛門が「釜茹での刑」に処せられた。

・文禄4年(1595年)、豊臣秀次がさらし首にされ、その首の前で妻子侍女など39人が三条河原で処刑された。川が血で真っ赤に染まったと伝えられている。

・慶長5年(1600年)、石田三成が六条河原で斬首刑にされた後、三条河原でさらし首にされた……。

 興味深いのは、幕末に新選組の近藤勇のさらし首も三条河原で行われたこと。池田屋騒動が近くで勃発したという事情もあったのかもしれませんが、江戸時代になってもずっと「さらし首=三条河原」といった構図が残っていたことになります。

 そんな処刑場が丸見えの三条大橋を、果たして江戸時代の人は喜んで渡ることができたでしょうか。なんとなく避けたくなるのが人情というものではないでしょうか。

京都・三条大橋から見た三条河原(写真:PIXTA)
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