

![]() ![]() 2009/04/17
文/大南勝彦
【要点】
プチャーチンは10月半ばには下田湾に入ったが、21日早暁、三島宿から3里ほどの大仁(おおひと)村で、下田奉行からの早馬で知らせを受けた川路は、難所の天城越え六里をはじめ、下田までの20里ほどを、駆けたり肩輿(かたごし)に乗ったりという、20時間ぶっ通しの強行軍で、22日午前1時過ぎに下田へ着いた。「汗おびただしく出たれば衣類水の如し」と川路は書いている。 11月1日と2日に儀礼の交歓。3日から福泉寺で会談を始めたが、翌4日、いわゆる東海大地震で、朝の8時過ぎ頃から夕刻までのうち、大きな揺れが2度襲い、前後9回も大津波が発生して、ディアナ号は大破してしまった。下田の全戸数八百数十戸のうち、殆どが全壊し流失。溺死者は85人、家屋倒壊による圧死者も加えると、100名を超える死者が出た。下田は全滅状態となったのである。 ディアナ号は、下田湾が広くない上に、2000トンの巨艦で、しかも大砲52門を装備していたため、自由を失い、およそ30分間にぐるぐると42回転もして、甲板上にころがり出た大砲に水兵1人が圧死、1人が片足をつぶされた。そして湾内の島の岩石にぶつかり、船体を破壊してしまったのである。しかもこうした中で、ディアナ号は湾内を流される町民3人を助け上げ、津波がおさまるとプチャーチンは筒井と川路を見舞って、「ロシア使節団の医師を遠慮なく使って欲しい」と申し出たという。川路が、その豪胆さと気配りに感じ入ったことは言うまでもない。 条約交渉は、地震後僅か3日目から再開された。幸い、寺の造りは民家よりも堅牢であったので、倒壊、流失を免れた寺でおこなわれ、筒井や川路たちの宿所にもあてられた。プチャーチン一行は、破壊されたとは言えディアナ号は沈んだわけではないので、船に宿泊した。なお、幕府側の使節全権は筒井政憲で、川路聖謨は副全権だが、筒井が高齢で耳が遠かったことから、事実上、川路が代表を務めたのである。
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