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産業遺産の旅-人と味
幕末造船秘話 その2(下) ――日露条約に至る道 ――災害の中、両国民衆の友情による開国のドキュメント――
2009/04/17

文/大南勝彦

1854年11月の大津波の様子を、ディアナ号乗組員が描いた
(大南氏が旧ソ連のサンクトペテルブルクで、この絵を撮影)

【要点】

  • 1854年(嘉永七年)11月4日、下田湾に停泊していたプチャーチンの乗艦、ディアナ号はいわゆる東海大地震による大津波で、大破した。英仏との戦争状態にあるロシア側は身の安全も確保できる修理基地を要請、幕府の交渉役、川路聖謨は巨大な船体と500人にのぼるロシア人たちをかくまう候補地として、戸田(へだ)の港を探し出した。
  • 曳航中のディアナ号は駿河湾で強風にあおられ沈没する不幸に見舞われたが、現在の富士付近の漁民たちは危険な中をロシア人らを救出するなど、日露ふれ合いの場面があった。
  • 帰国する船がなくなったロシア使節団一行のため、川路は3000両を用立て、代わりの帆船の建造にあたった。駆り出された地元の船大工らは、ロシア使節団が持っていた設計図をもとに、初の西洋式帆船の建造に成功、「戸田号」と名づけた。プチャーチン一行は無事ロシアに帰国、戸田の船大工からはその後、「造船ニッポン」の立役者たちが輩出した。

 プチャーチンは10月半ばには下田湾に入ったが、21日早暁、三島宿から3里ほどの大仁(おおひと)村で、下田奉行からの早馬で知らせを受けた川路は、難所の天城越え六里をはじめ、下田までの20里ほどを、駆けたり肩輿(かたごし)に乗ったりという、20時間ぶっ通しの強行軍で、22日午前1時過ぎに下田へ着いた。「汗おびただしく出たれば衣類水の如し」と川路は書いている。

 11月1日と2日に儀礼の交歓。3日から福泉寺で会談を始めたが、翌4日、いわゆる東海大地震で、朝の8時過ぎ頃から夕刻までのうち、大きな揺れが2度襲い、前後9回も大津波が発生して、ディアナ号は大破してしまった。下田の全戸数八百数十戸のうち、殆どが全壊し流失。溺死者は85人、家屋倒壊による圧死者も加えると、100名を超える死者が出た。下田は全滅状態となったのである。

 ディアナ号は、下田湾が広くない上に、2000トンの巨艦で、しかも大砲52門を装備していたため、自由を失い、およそ30分間にぐるぐると42回転もして、甲板上にころがり出た大砲に水兵1人が圧死、1人が片足をつぶされた。そして湾内の島の岩石にぶつかり、船体を破壊してしまったのである。しかもこうした中で、ディアナ号は湾内を流される町民3人を助け上げ、津波がおさまるとプチャーチンは筒井と川路を見舞って、「ロシア使節団の医師を遠慮なく使って欲しい」と申し出たという。川路が、その豪胆さと気配りに感じ入ったことは言うまでもない。

 条約交渉は、地震後僅か3日目から再開された。幸い、寺の造りは民家よりも堅牢であったので、倒壊、流失を免れた寺でおこなわれ、筒井や川路たちの宿所にもあてられた。プチャーチン一行は、破壊されたとは言えディアナ号は沈んだわけではないので、船に宿泊した。なお、幕府側の使節全権は筒井政憲で、川路聖謨は副全権だが、筒井が高齢で耳が遠かったことから、事実上、川路が代表を務めたのである。


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