「不自由さの中でプレイしている感じ」が課題
ただ、正直なところ、ちょっとつらいなーと思ったのは、現実的な島を舞台にしているところ。どうしても、リアルな島との違いが気になってくる。例えば、水着を着て、浜辺へ進んだとき。海へ入ろうとしても、途中からなぜか進めない。同じ位置で足を動かすことしかできなくなる。そのままザブンと泳ぎたいのに。
「あっ!ノコギリクワガタだわ。つかまえたー!もっとキレイなのいないかな?」なんて台詞(せりふ)も、どうしても説明に読めてしまう。クワガタを捕まえたら、何だろうと思って、図鑑を調べたりする、そういうことがやってみたかった。
また、何かあるとき、「?」が頭に出て、コマンド入力を要求される。それは自然の中を歩いて、はっと気づく感覚とはやはり違う。自分で気づきたい。逆もある。何か気になるものがあるけど、コマンド操作ができないので、じっくり見たりすることができない。なんだか分からないままだ。おそらく、これらは従来のゲームのコードでは許されてきたことだ。コマンドが出てこないのは、「競技に関係ないものだから、無視していいですよ」というメッセージだったはずだ。
でも、「競争」「目標到達」というゲームとしての大きな牽引力を省いたコンセプトの元で、自然をのんびりと探索する気持ちになっているときには、とても気になってしまう。競技としてのルールを排除した空間では、そのゲーム的な構造と、自然の豊かさや自由度の差が、感じられてしまうのだ。
そのため、なんだか、のんびりゆったりプレイするというよりも、不自由さの中でプレイしている感じになってくる。
もっと、のんびりプレイするモノにできたような気はする。いっそキャラクターを移動する操作をプレイヤーに委ねないでもよかったのかもしれない。と、新しいチャレンジをしたゲームだからこそ、あれこれ、考えてしまう。
「競争」「目標到達」を排したうえで、楽しめるものをどう作るか
「デジタルの夢でメシを食うためにボクらは」という本に収録したように、「デジタルコンテンツ仕事術」という講座をしていたとき、ゲストの飯田和敏がこう言った。
「だからね、『リッジレーサー』って、非常に美しいコースが、夕焼けのシーンがあったのね。レースゲームなのに、俺は、そこで止まりたかった(…)夕日を眺めていたかった」
飯田和敏がディレクションした「アクアノートの休日」「太陽のしっぽ」「巨人のドシン」といったゲームを、そういった視点から見ると、「競争」「目標到達」というゲームとしての牽引力を排したうえでゲームとして楽しめるものをどう作るか、という戦いのように思える。
携帯ゲーム機が進歩して、美しい映像や音楽を表現できるようになった。だから、生活の傍らに置いておくものとして楽しめるタイプのゲームが創造できる環境が整ってきたのだろう。「ロコロコ」や「カルチョビット」がゲームとして新鮮なのは、のんびりと眺める楽しさを許容し、それが可能になる世界を作り込んだ/切り出したことだ。
「ポータブル・アイランド 手のひらのリゾート」のように現実的な島が、かたわらの携帯ゲーム機の中にあって、気分転換にリアルな感触で体験できるようになれば、それはすごいモノになると思う。
「〜しながらゲームを遊ぶ」「だらだらとゲームを遊ぶ」というゲームの新しい楽しみ方は、これからもっと広がっていくだろう。
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