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東京ゴルフ倶楽部完成とともに 役割を終えた根岸ゴルフ場
第一次大戦まで、馬は兵器だった。ところが、国産馬は体高が低く後躯が弱かった上に去勢技術もなかったため、軍馬としてはまったく使いものにならなかった。暴れるだけでなく運搬能力も劣り、1899年に中国山東省で起きた義和団の乱に際し、ロシア、イギリスなど8カ国と共同作戦をとったとき「日本軍は、馬のような格好をした猛獣を使用している」と言われ、赤恥をかかされている。馬の改良は、不平等条約解消を目指す明治政府にとって最重要課題のひとつであり、馬産者に改良を奨励する目的として競馬が注目された。根岸競馬場で始まった洋式競馬は、明治という時代進行のなかで、英国人の娯楽からより現実的で日本的な意味を担うようになったのである。
しかし、馬券—賞金という必然的な流れは、馬の改良という目的から大きくそれてしまう。庶民の射幸心を煽り、風紀は乱れ、政府はついに1907年に、馬券禁止令を出した。ただ、馬の改良という目的は残ったため、翌年から補助金競馬が開催されるようになった。こうした競馬の年譜に根岸ゴルフ場のそれを重ねたとき、共同馬主作戦という〈策略〉が浮かんでくる。日高論文によれば、コロネル・ボギーの登場は1913年で、その持ち馬は1917年春には姿を消す。駒沢に東京ゴルフ倶楽部のコースが完成するのは1914年、設計者は根岸コースと同じG・GブレディとF・Eコルチェスターである。駒沢で初めて日本アマチュア選手権が開かれた1918年に井上信が初の日本人チャンピオンとなり、最後の根岸開催となった翌年に川崎肇が優勝 東京の台頭で、根岸ゴルフ場の役割は終わりつつあったのだ。そして関税自主権を回復し(1911年)、馬に代わって自動車が戦場を支配し始めたとき、根岸そのものの役割も終わっていたのだろう。
コロネル・ボギーの馬たちは勝てなかった。唯一、ビスクという馬が天皇賞の前身である帝室御章典競走で優勝している(大正5年春)。しかし、それはコロネル・ボギーが手放した後の栄冠だったという。日高さんはこう話した。 「コロネル・ボギーは、持ち馬をすべて一開催で手放しています。抽選馬は毎年、オーストラリアから来ていましたから、見切りが早かったのでしょうね。ビスクの例をみれば、会員にはあまり見る目はなかったのかもしれませんね」
いや、彼らの興味はもはや競馬からゴルフに移っていたのではなかったのか。狙いは賞金ではなく〈補助金〉だったのではなかったか。 ゴルフのために必要だった競馬場……そんな昔を思うとき、根岸の森には憂愁が漂うようだった。 |
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