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かつての川底に横たわる人と自然と時間
井上誠一は明治41年、東京に生まれた。旧制高校時代に大病を患い、療養先の川奈でゴルフと出会ったことは知られている。その川奈で、大谷光明の招きで来日していたチャールズ・H・アリソンの仕事を見たのが、設計家としての始まりになった。日本ではアリソン・バンカーの名で知られるチャールズ・H・アリソンは1832年生まれ、オックスフォード大学ゴルフ部の出身である。卒業後にコース設計の先駆けとなったハリー・コルトに師事しているが、彼らの出現には時代背景があった。ゴルフが普及した19世紀後半、必然的にスコットランドのリンクス・コースから内陸コースへの需要が高まっていった。すなわち、自然の地勢をそのままではなく、人の手による、戦略的なコース設計への転換を迫られた。ただ、当時の英国においてそれは山を崩したり、池やバンカーを掘り起こしたりという単純な手法に陥ることはなかった。 19世紀から20世紀にかけては、新大陸アメリカの台頭と帝国の衰退という状況を背負った英国が、一方で、産業革命からの様々な揺り戻しに気付き、自然を見つめ直した時期になる。博物学は、1852年に現在の大英博物館が拡張建造されて以来隆盛したし、趣味の分野では、19世紀後半から昆虫学を駆使したフライフィッシングが進化を遂げた。 ところで、明治6年に創業した金谷ホテルは、観光ブームに乗って増え続けた外国人宿泊客のため、増改築を繰り返した。明治23年に建てられた本館にはアインシュタインが、昭和10年の別館にはヘレン・ケラーが……歴史の流れを見守ってきた高い天井や調度品が落ち着いたたたずまいをかもし出し、かつて外国人9に対し日本人1だった宿泊客の割合は逆転、いまは静寂な時間に浸る年配のカップルの姿が目立つ。回転扉、ランプ、机、ボイラー、高いカウンター。 蔵から出てきた乾板写真の山の中に、英国紳士が写った不思議な写真があった。正装した男が、50センチは優に超す虹鱒を捧げ持っている。中禅寺湖に放流されたのは小型のブルックトラウトだったはずだから、この写真が日光のものかどうかの判断はつかない。しかし、英国紳士が鱒を持つ姿は、日光に相応しい。
長崎のグラバー邸で知られるトーマス・グラバーが、三菱の岩崎弥之助の招きで上京したのが明治18年である。鹿鳴館の外国人名誉書記として社交界入りしたグラバーは、中禅寺湖のイワナ釣りに熱中し、明治35年にはコロラドからブルックトラウトの卵を輸入して稚魚放流している。もちろん、フライフィッシングであり、当時使われたロンドンの老舗、ハーディー社製のフライ(毛鉤)が残っているそうだ。日光中禅寺湖は、日本のフライフィッシング発祥の地なのである。そこにゴルフがないのはおかしいではないか。まして、グラバーが日本人妻との間にもうけた一人息子、中禅寺湖での釣り姿の写真も残っている倉場富三郎は、日本最初のパブリックコースである雲仙ゴルフコースの開場に尽力した人物だった……。 日光の設計を依頼されたとき、井上誠一にそこまでの思いがあったかどうかは分からない。ただ、日光という土地と人にそうした歴史が流れていることは感じ取っていただろう。無数の石を人力で取り除き、それを重ねて基盤を作り……井上は昭和28年暮れに提出した計画書で細かな指示をしている。 『幸場内には大小の川柳をはじめ、松林や紅絹の独立樹など他所には珍しい風致にも恵まれてゐるし、地形も変化に富んだ望ましいものなので、樹木や や流水などを自然障害物として出来る丈利用して風致を纏め、Bunker等の人工障害物は成可く避け乍らPlayの興味を増大するやうに……』 人と自然と時間 ここにアリソンの流れを汲む近代ゴルフの思想が流れている。19世紀の英国が思考し、日光の町が体感してきた歴史が、かつての川底に横たえられたのだ。 夏は青葉、秋は紅葉に抱かれて白球は飛ぶ。自然のメカニズムを汲み取った日光カンツリー倶楽部の不思議は、人生の謎解きなのかもしれない。 |
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