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占領軍から日本人会員へ
新しい経営体系の先導者こその苦渋 後にコースキーパーとなって京に腰を据えた久保田監査役は、上賀茂ゴルフ場もまた他の例に漏れず社団法人の運営を考えたという。だが、戦後の混乱のなかで審査を受けられず、ことは急を要し、日本で最初の株式会社としての船出となった。時代の脚は速い。昭和25年の朝鮮戦争の足音とともに米軍兵士の姿は消え、コースには戦争特需で勢いのついた西陣の主人たちの姿が目立つようになる。みるみる膨れ上がった800人の日本人会員による過密な順番待ちの賑わいに、新たに西コースを着工したのは昭和33年である。
戦後初のゴルフ場建設、日本最初の株式会社運営、法人会員の導入その後の日本のゴルフの歴史を先導した第一歩は、京都だから、上賀茂の歴史があったから可能だったといえるかもしれない。そして、京都ゴルフ倶楽部はパイオニアとしての苦渋もなめた。 日本のゴルフは神戸ゴルフ倶楽部以来、同好有志による会員運営で成り立ってきた。株式会社組織は利益追求を目的とし、初期の京都ゴルフ倶楽部にもそれゆえのギクシャクしたものがあったようだ。初代キャプテンは日本ゴルフ史に名を残す地元・西本願寺門主の大谷光明猊下だが、本場仕込みの先駆者が反対派だったことは想像に難くない。さらに時代が進んで昭和40年代後半には、キャディ組合のストライキが新聞を賑わした。 午前8時の就業時間をめぐって、総評系と同盟系がグリーン上で激突する前代未聞の事態に発展した。時代が時代とはいえ、レジャー産業確立前夜のにらみ合いは、株式会社という経営体系から発したパイオニアならではの苦渋でもあった。争議をきっかけに、日本独特の女性キャディシステムを廃止してセルフカートを導入したのも、この京都ゴルフ倶楽部が日本で最初になる。
「コースはずいぶんいじりました。芝の研究もしました。せめてパー70にしたいが、この土地柄から広げることはできません。シェフィールドさんは、完成して2、3年後に見に来ました。満足そうでしたね。あの時、プレーはしなかったんじゃないかな」 久保田監査役はクリーク沿いのテーダマツの並木を指差し、自分が50年前に未生の苗から植えたのだと笑った。 「ここで初めてブルドーザーを見たんだ」 市街から車で15分。世界遺産の中にある唯一のゴルフ場にふさわしく、そこにはいまも鮮やかな緑と静寂が残されている。神聖を侵すのではなく芝生できれいに守るのだ・・・。そんな理屈を言ったアメリカ人がいたことが、なぜか嬉しい。 【参考文献】 |
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