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歴史探訪・戦後を歩んだ古都のサンクチュアリ 京都ゴルフ倶楽部 後編
文●武田 薫
写真●北川 外志廣

2006/09/20
戦後社会の平和の象徴だった
ゴルフ場のもうひとつの意義
4番ホールティグラウンドは、満々と水をたたえる大池の中に浮かぶアイランドティ。330ヤード、パー4と距離は短めだが、池を背に奥の濃い緑の森に向かって打っていく、美しいホールだ。

 進駐軍の家族宿舎が、昭和22年4月までに100戸、翌年4月までにさらに100戸、北山にある植物園に建設されることが決まっていた。植物園は上賀茂ゴルフ倶楽部から車で10分の位置にあり、植物園が家族宿舎になった経緯も神社側には影響があったはずだ。昭和21年7月、最初に軍政部が宿舎予定地として指定してきたのが京都御所外苑だったのだ。これだけは避けたいと、府知事を中心にGHQまで陳情した際、申し出た代替地候補のなかに上賀茂があった。軍政部は植物園を譲らず、この交渉中さらに、御所に飛行場を作るという話も持ち上がっている。御所をめぐる攻防のなかで、神社側は多くを譲らざるを得なかっただろう。

 コースの民間工事を請負ったのは、安達貞市という男だった。先代が造林、造園業を営んでいた関係で芝に詳しく、戦前の六郷ゴルフコースを皮切りに小金井、富士、函館などのゴルフ場を手がけ、戦後の小金井再興の折にはGHQに招かれ再びゴルフ場に手を染めることになった。

木造れんが造りのクラブハウス正面。元は京都大学の研究所として使われていた建物を改造したもので、落ち着いたたたずまいが印象的だ。

 その安達貞市が京都で一肌脱ぐと決めたとき、現場責任者に抜擢されたのが、京都ゴルフ倶楽部の経営母体である観光日本株式会社の久保田粂吉監査役である。入洛は忘れもしない昭和23年2月9日だった。

 「驚いたのは、京都の町が焼けていなかったことです。東京はどこも丸焼けだったし、30何時間もかかった汽車の窓の外も、ほとんどが空襲をうけていた。京都の駅からゴルフ場まで歩きましたが、私の目にはまったく違う風景と映った」

 アメリカが京都を爆撃しなかったのは、聖地という精神性ではなく、歴史的建造物というハードを重んじたからだ。軍政官はこのハードな軸に京都を観光産業中心の民主的都市にしようとしていた。シェフィールド少佐はゴルフ場建設だけでなく、6・3・3制の教育制度を訴え、PTAを奨励し、闇市を廃して食糧問題を援助している・・・山積する仕事と並行して、ゴルフ場建設に情熱を注いでいる。ふたつの原爆まで落としておきながら、ついに手を触れなかった古都に平和な町を夢見ていた。ゴルフ場はその象徴だった。

左・昭和30年代前半、日本の第一次ゴルフブームの頃の様子。キャディの数が足りず、大原女の格好をした茶店の売り子までかり出されるほどの盛況ぶりだったいう。
右・クラブハウスで行われるコンペのあとのパーティには、祇園から芸妓や舞妓が呼ばれることもあったという。いかにも京都らしい光景だ。

 安達貞市は米軍からの重機および技術者の提供、京都市から土地権利者との交渉などの条件をもとに、工事費3千万円という以前の十分の一の予算で契約を結んでいる。この破格的条件は、シェフィールドや安達貞市の個人的な情熱だけでは説明できないだろう。日本側の民需産業への意欲、賠償緩和の必要、新たな戦後社会構築への意思がなければ、ゴルフ場開発は成立しなかったはずだ。

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