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京都ゴルフ倶楽部 前編
神聖を冒すのではなく、
芝を植えてきれいにするだけ

 昭和20年8月15日の終戦を境に、日本全土はアメリカ合衆国を中心とした連合軍の占領下に置かれた。全国に進駐軍が入り、第六軍第一軍団の京都進駐はその年の9月25日。翌年の第六軍の解散に伴い、第八軍第一軍団が四条烏丸にあった大建ビルを司令部として、日本の聖地・京都の〈再建〉に取り組み始めた。司令部と民間との間に終戦連絡事務局が入り、徴税問題、いわゆる第三国人対策、教育の再編などさまざまな戦後処理が始められるのだが、その軍司令部から意外な要求が出てきた。上賀茂神社の敷地内にゴルフ場を造る計画は、ゴルフが何たるかも知らない神社関係者には宙をつかむような話だっただろう。

 進駐軍のゴルフ場整備は早かった。芋畑や軍用施設に様変わりしていた戦前からのゴルフ場はすぐに接収され、霞ヶ関カンツリー倶楽部では終戦2ヵ月後にプレーが再開されている。関東では東京ゴルフ倶楽部、程ヶ谷、小金井などが続き、関西では鳴尾、宝塚、広野、茨木に打球音がこだまするまでに時間はかからなかった。もちろん、プレーしていたのは駐留軍将校である。京都では、戦前にあった山科ゴルフ倶楽部が開戦と同時に消滅しており、ゴルフ好きの将校たちはわざわざ宝塚に通ったという。鉄道は引揚者や買出しの人でごった返していた。地元にとの意向は分かるが、上賀茂神社をどこと心得るか。

17番ティグラウンド脇の神が降臨されるという「御阿礼所」。
3メートルほどの高さの木が柵で囲まれている。

 終戦直後の10月の司令部通達がある。

 『進駐聯合軍将兵ノ聖地ニ對スル個々ノ不法侵犯ヲ防止シ聖域ノ尊厳ヲ堅守スル為ノ不法立入禁止区域』として、京都御所、歴代天皇陵に加え、神社四社が指定され、上賀茂神社は無闇に入るべからざる聖地と認定されているのである。これはどういうことか。

 ゴルフ場建設計画は、昭和21年8月、2代目の軍政官ハロルド・シェフィールド少佐を先頭に進められていった。設計は赤星四郎、鹿島組の施工による総工費2億7千万円という大プロジェクトは、京都大学演習林と上賀茂神社の8万5千坪の境内林を覆っていた。急遽呼び出された神社代表は反発、聖地内である旨を説明し、他地区への変更を要請した。軍政官は譲らなかった。この建設計画はPDという特別な権限を有していた。

 PROCUREMENT DEMAND、すなわち占領軍調達要求書というお墨付きの事案だったのである。

 「京都を平和観光都市にするためにはゴルフ場は必要である。」「神聖を冒すのではなく芝を植えてきれいにするのだ……。」

 シェフィールド少佐は、必死に抵抗する神社代表に有無を言わせず、9月23日に実測が行われ、すぐ伐採が始まり、11月15日には起工式が執り行われた。この工事はPDである。日本は戦争に負けたのだ。神聖といっても、恐らく連合国軍最高司令部(GHQ)の占領目的は、日本人が敗戦まで抱き続けた神聖を解体するところにこそあった……。抵抗しきれる問題ではなかった。軍政部の目的が私的趣味のゴルフか、神聖解体という大儀なのかが見えないからだ。

 ところが、12月7日、突貫工事はいきなり中止された。吉田茂首相が取り消しを要求したといわれるが、膨大な費用がネックとなってマッカーサー総司令官が中止命令をくだしたのだ。神社側は胸をなでおろした。既に3992本もの木が伐採されていた。工事を急いだばかりではない。当時の薪は配給制で、PDから出た木材は統制外だった。しかし、工事は止まっても軍政官はあきらめていなかった。シェフィールドはどうしてもゴルフ場を造ろうとし、その勢いに日本側も後押しをしないわけにはいかなかったようだ。『日本占領・外交関係資料集第二期』の終戦連絡京都事務局月報は、こう記録している。

世界文化遺産に指定される上賀茂神社境内。
重要文化財建造物が立ち並ぶ荘厳な雰囲気だ。

『◎上賀茂ゴルフ場に関する件
(同ゴルフ場計画は)京都として観光施設を完遂し外客を誘致する見地からも頗る有意義と認められると共に連合軍側の熱心召湧もありPDによる工事ではなく、民間の工事として近畿観光株式会社の手で本計画の実現を期するところとなったが、始め本計画に反対の立場を採った神社及び地元側との諒解も成立し愈々三月二十日より工事を開始した』(一九四八年三月十六日~三十一日・第三号) 1年余りの空白期に、PDではなく民間工事として建設再開の交渉が成立した。上賀茂神社の抵抗は大きかった。断腸の思いでゴルフ場を受け容れたのは占領軍だったからである。なぜ民間に譲らなければならないのか 。E・L・コモンズという退役軍人から現在の京都倶楽部の尾形淳理事長に届いた1通の手紙がある。記憶は定かではないが、と前置きしてこう綴っている。
『私は46年から49年半ばまで、軍政部の産業担当官として京都に滞在していました。上司はシェフィールド少佐で、スウィング 少将の第一軍団の傘下にありました。二人ともゴルフ好きで、シェフィールド少佐が重機の提供などを条件に京都側と話をつけ、少将に話を上げたと記憶しています。コースデザインの変更権を取り付けていましたが、二人は幾つかのホールの設計で意見が合わず、私は調整に苦労しました。少将が怒って、責任者に「シェフィールドの話は聞くな」と命じていたのを覚えています』

 事務局月報の文体からはシェフィールド側に立つニュアンスが感じられ、コモンズの手紙からは少佐のゴルフ好きがうかがえるだろう。

次回「戦後社会の平和の象徴だった ゴルフ場のもうひとつの意義」につづく
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