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2000年全米オープン…。これが最後の全米オープンということで、ニクラスは感慨深げに思い出のぺブルビーチGLのコースをプレーしていた。最終ホールのティグラウンドでは、しばし待ち時間に止り木に腰かけ、太平洋を眺めるシーンもあった。
18番ホール……。ニクラスはこれまで、この第1打でドライバーを使ったことがなかった。けれど、この日はドライバーを使ってフェアウェイ、2オンを狙った。残りピンまで261ヤード。3番ウッド。ボールはようやくグリーンに乗った。ファーストパットは、ピンまで15メートルほどの距離を3メートルもショートした。 「親父、大丈夫? 涙でラインが見えないんじゃないの?」と声をかけたのは、キャディをしていた長男だった。帝王の眼に涙がいっぱい浮かんでいた。 そして2005年全英オープン……。ニクラスは、セントアンドリュースでのこの大会を最後に、正式に引退表明をした。 帝王……という言葉を、日本では、この偉大なるプロゴルファーにつけた。でもニクラスの残した記録やプレーぶり、あるいはビジネスは、確かに帝王というに相応しいかも知れないが、彼ほど努力家であり、負けず嫌いであり、闘争心を失わない人物はいないと思う。彼は「つまるところ、私のエゴ、ディザイアが、私をここまで支えてくれた根源なのだと思う」と言っている。 だから、思い出のトーナメントは、と僕が訊ねたとき、「ひとつひとつの(優勝した)ゲームには、それぞれの勝ち方があり、思い出があり、理由があり、背景があるから選ぶのは難しいけれど、たとえば、62年の全米オープン(オークモントCC)は、まずひとつの夢が実現したという初優勝だったし、66年の全英オープン(ミュアフィールド)の優勝は、とてもかえがたい勝利だった。さらにセントアンドリュースでの2度の(全英オープン)優勝も格別のものだった……。そんな中で最も感動的だったのは、86年のマスターズだったと思う。 でも……忘れられないのは、63年ロイヤルリザムで開かれた全英オープン。最後の2ホールでボギーを叩いて、結局1ストローク差でプレーオフに加われなかった。
17番ホールで、ティショットをフェアウェイ右サイドに落として、2打目を打とうとしていた。キャディのジミー・ディキンソンが残り212ヤードだと言って、3番アイアンを差し出してくれた。私はふと逡巡して2番アイアンのほうがいいんじゃないかと彼に言った。3番で十分だという彼のアドバイスを聞かずに、2番アイアンでピンを攻めたわけです。ところがボールはグリーンオーバーして、1メートル半に寄せたもののそれを外してボギーを叩いた。そして18番ホールのティグランドに立ったときに、ちょうど16番グリーンでフィル・ロジャースとボブ・チャールスがパッティングをするところだった。ふたりともバーディはとれなかった。従って私は、この18番ホールを4で上がれば優勝、5なら並ぶと思って攻めることにした。18番ホールは、左サイドにいくつもバンカーがあって、最後のバンカーを越していくのが理想だ。ところがキックしたボールはバンカーに入って、結局サンドウェッジで出すだけ。私は、そこをボギーの5でホールアウトして、彼らのプレーオフには加われなかった。自らの失策で勝ちを譲ったわけです。その記憶が鮮明にいまでも残っている」とニクラスは、負けた試合を述懐した。 僕にとって、忘れられないニクラスの言葉がある。それは2000年全米オープンのときの言葉だ。長い記者会見が終わって立ち上がろうとしていたときに、彼は、ふと呟いた。 「こうやってもうこの試合に出ないというようなことを言っても、……きっとインタビューを終えてロッカールームに戻れば、頭をロッカールームにぶつけて、足で蹴って、なんて酷いスコアで回ったのだろうって言うだろう。そして、いつものように、さぁ、もっと上手くなるために練習場に行こうって言ってしまいそうだ。私は、いまでも上手くなりたいと思っているのだから……」 ニクラスの時代が幕を閉じた。ニクラスが20世紀最大のプロスポーツ選手と賞されたのは、戦歴に加えて、自分の技量に溺れず、さらに上達したいという尽きることのない向上心ゆえに他ならない。 |
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