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親父は、私が小学校の頃、日新丸の団長として南氷洋まで行っていた。聞いた話によると1週間ぐらい寝ずにいたということも、しょっちゅうあったらしい。
私の家は、いわゆる山の手にあった。母屋が9部屋ほどあり、サン・ルーム風の廊下を渡って納屋につながる。かなり広い敷地だった。私は、そこで生まれ育った。しかし、私がいくら“坊ちゃん”であったにせよ、それは、私自身には全く無関係であると思っていた。いや、そんな気は全くなかった。ところが、世間では、どうやらそう受け取ってくれなかったらしい。あくまで中部利三郎の息子としてだけだった。
すでに、私にとっての唯一の“味方”はゴルフだけになっていた。ゴルフは独りになれるし、自分と戦っていればいい。雑音を入れる必要もなかった。小学4年で36から30になり、5年で22になり、6年で20になった。だが、20になって悩みはなお更多くなり、ハンディキャップもすぐには伸びなかった。
20というと、ちょうどハーフで45を切るか切らないかという頃である。ここからの脱出に何をしたか。むろん練習は必ず週2回欠かさなかった。夏休みなどには、できるだけ多くコース通いをした。
まず、18ホールズのショットをすべてチェックすることから始めた。ラフに入った数。その球筋の状況。ダフリやトップの回数など、すべてチェックしたのである。
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