|
||||||||
|
ただし、『雲仙ゴルフ場沿革』にこんな記述がある。 「今日にてはその先見の明ありたりと賛辞を得つつあるが、当時の知識階級人士にしてゴルフとはゴリラのことなるやと質問せしほど、一般民衆はゴルフ知識を欠きおりたるという事実よりすれば、今日の盛況は正に夢想だに能はざりしかと思わる」 この厳しい現実を前に、助けの手を差し伸べた人物として「倉場富三郎」という名前が登場する。開国の混乱期に、伊藤博文や坂本竜馬らに影響を与えたイギリス商人トーマス・B・グラバーの名は、観光名所グラバー邸のたたずまいとともに知らない人はいないだろう。富三郎とは、そのグラバーと日本人女性との間に生まれた一人息子のことである。 明治3年にグラバーの妻ではなく、加賀マキという女性の子として生を受け、6歳の時にグラバー家に引き取られた富三郎は、父親の元でイギリス流の教育を受け、学習院から米国留学を経て、明治26年に長崎のイギリス系商社に勤務することになる。倉場という姓は日本国籍を取得するために作られた当て字だ。 日本で最初にできた神戸ゴルフ倶楽部は、茶商だったアーサー・H・グルームが故郷のイギリスを偲んで造ったものだが、雲仙ゴルフ場は成り立ちが違う。ゴルフそのものはもちろん、リゾートという概念すらなかった時代だけに、富三郎がゴルフ場開設から大きく関わり、奔走したことは間違いない。先の沿革にも「長崎ゴルフ界の重鎮として功労者として知られたる倉場富三郎氏……」と記されている。 富三郎にまつわるこんな話もある。プッチーニによる歌劇「蝶々夫人」は、富三郎の母・マキをモデルにしたといわれるが、富三郎のような例は、当時の長崎に少なくなかっただろう。ともかく、明治37年2月のミラノ・スカラ座で初演されたそのオペラは爆発的ヒットとなった。蝶々夫人のアリアは、日本が大勝利をおさめた日清日露戦争の驚きに重なるように欧米各地にナガサキの幻想を広げ、雲仙の名声をも世界に高めた。そして、富三郎はオペラに殉ずるような最期をとげる。第2次大戦に入ると、混血ゆえに疎まれ、尋問が続き、孤立を余儀なくされた。そして敗戦の1週間後、彼は全財産を長崎市に寄付するとの遺書を残し自害してしまうのだ。ゴルフ場に残る富三郎の写真が妙に寂しげに見えるのは、気のせいばかりともいえないようだ。ゴルフ場開設の影には、そんな歴史のしがらみもあったのである。 ![]() 調度品などもホテルが建てられた当時からのものがほとんどだという。 ロビーやバーなど、実に落ち着いた雰囲気だ。 次回9/28更新に続く 前号以前の記事 封印された楽園 国際化への布石 |
|
|||||||