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いま思えば大いに疑問が残るところだが、その当時の長崎はいってみれば日本の玄関口。修好条約締結で安政3年(1856年)に開港され、いわゆる居留地貿易が始まるのだが、最初は居留地の10里四方(約40キロ)に制限されていた外国人の行動範囲は徐々に拡大され、長崎では明治12年までにはほぼ全県に及んでいた。ジャパンマーケットの前線基地でもある長崎は、やり手の外国商人で溢れ返っていたのである。 さらに、大正12年に日華定期連絡航路が開設されると、長崎と上海間は一昼夜で結ばれるようになる。船の収容人員は350人で、運賃は18円。ちなみに東京までの汽車賃が12円だったことを考えると、長崎は国際舞台と地続きだったようなものだ。 加藤支配人は雲仙の出身で、先祖は湯守(ゆもり)とよばれる温泉管理人だった。戦争直後の幼いころ、よくゴルフ場でキャディのアルバイトをしたという。子供たちは野球ではなくゴルフをしていた。枝をはらったクラブでプロゴルファー猿のように……。加藤さんには、中村寅吉(六甲)や安田幸吉(駒沢)と同じような思い出があるのだ。いや、もしパブリックでなければ(雲仙でなければ)、加藤さんの人生は変わっていたかもしれない。 「このあたりでは、年寄りのほうが若いもんより英語をよくしゃべっていました。ロシア語をしゃべるおばあさんまでいた。外国人が日本人に道を尋ねられて困った、そんな笑い話がまかり通っていた頃があったんです」 狐につままれたような話だが、当時の長崎、雲仙はそういう土地柄だったのである。
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