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国際化への布石
江戸時代から禁止されていた雲仙岳の登山は、ペリー来航、修好条約の締結をテコに入ってきた外国人の間で再び興味の対象となった。登山で飽き足らなくなるのは時間の問題だったのか。先の沿革にはこうある。 「数十年前よりクラブ員に往来しゴルフ遊戯をする外人ありしは、雲仙部落古老の言にして、以って雲仙ゴルフ場が我が国に於ける草創の地位に在るを知る」 すなわち、ゴルフ場が開設される以前から、雲仙岳の麓の草原に目をつけた長崎在住の外国人がゴルフ(のようなもの)をやっていたことになる。そこに役人が目をつけた。大正2年8月24日付けの長崎新聞は、40ページ建ての巻頭に『島原車道問題』と題して雲仙公園を大きく取り上げている。
「県当局が破天荒の画策をたて十数万の巨資を投じて県経営の名に於いて着手たる天下の大公園たる温泉遊園地は既に成り……一方に於いては年々巨額の補助を与えたる島原鉄道はまさに来月を以って全通せんとす……」 ここで「温泉公園」には「うんぜん」のルビが繰り返され、「雲仙」という表記はどこにも出てこない。「雲仙」は、昭和に入ってから国立公園に指定されるまでそもそもが「温泉」であり、地元には温泉の語源は雲仙にありと主張する人もいるくらいである。雲仙国立公園のもとをたどれば温泉公園であり、この記事は、島原から地獄の湯煙が這い上がる温泉地までの車道を整備するのが急務だと訴えている。ゴルフ場の記述はないが、長崎県が県立公園を企画した理由は明確に説明されている。 「当初、県当局が温泉公園(うんぜんこうえん)の経営を企図するに際し、明治50年は即位記念大博覧会の開催せらるるが故に、欧米各地の観光客必ず増多すべし、この際に於いて温泉公園の景勝と規模とが多数来朝すの外客をして必ず心身を楽しましめ、県市を利潤すること多大なるべきを理由としたり」 どうやら始まりは、明治天皇の即位五十周年行事だった。明治天皇は祝賀を待たず亡くなられたが、記念大博覧会に訪れる外国人観光客を呼び込むにふさわしい施設を造る、そういう目論見だったのだ。それにしても、六甲や鳴尾には神戸や大阪という国際都市が控えていた。根岸や、後の箱根仙石原、軽井沢には東京という巨大な需要があった。都が北上して半世紀になろうとしていたその頃、長崎からつながる雲仙に、どんな成算があって巨資を投じることになったのか。 |
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