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小樽を旅する-第3回「栄華を誇る・小樽~日本で3番目に鉄道も開通、銭函CC誕生のきざし」
当時のままに残るニシン御殿。
御殿というときらびやかなイメージがあるが、実際は出稼ぎ漁師、やん衆が寝泊まりする番屋だった。

 江戸時代からやっていたニシン漁は、明治に入ると身欠きニシン、本州の米作用の肥料として需要を増し、やん衆の勢いは大正年間まで続いた。そして、さらに小樽を燃え上がらせたのが石炭だ。石狩川上流にある国内屈指の幌内炭鉱とニシン漁でにぎわう港が結びついた。北海道鉄道記念館のある手宮機関車庫と札幌間の鉄道開通は明治15年で、横浜—新橋、神戸—京都に次いで日本では三番目の早さ。この事実がかつての小樽の経済的繁栄を物語り、その面影はいまも町の中心部のそこここに残る。

 小樽駅前の中央通りをまっすぐ下ると、小樽運河にぶつかる。夜にはクラシックな街灯がともされ、若い二人のフラッシュが水面に光る。水際に並ぶ石造倉庫は、いまはレストランやショッピングモールに様変わりしている。明治半ば、寄港する船が増えたために造られた当時としては珍しい埋め立て式の運河であり、それに沿って多くの歴史建造物が並んでいる。


日本郵船小樽支店だった建物。
このほか石造りの歴史的建造物が数多く残されている

 運河から一本上の色内本通りは、かつて「北のウォール街」と呼ばれていた。明治13年の三井銀行小樽出張所を皮切りに次々に銀行が進出し、明治39年には日本銀行も支店を設けた。日銀支店の完成は明治45年、設計は東京駅の設計でも知られる辰野金吾だった。小樽の活気は、第一次大戦で木材や雑穀の輸出でさらに拍車がかかって第二次大戦まで続いた。銭函CCの生みの親、佐藤棟造が三菱鉱業小樽支店長に着任したのが大正15年、小樽絶頂期のことである。

次回10月28日更新につづく
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