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小樽とはそもそもオタ・オル・ナイ(砂浜の中の川)というアイヌ語で、銭函周辺の漁場をさす言葉だった。絶え間なく吹く海風で、コース内に点在するギンドロの木はかしぎ、銀色の葉裏を光らせていた。ダンプカーが往来する道の向こうに水平線がうねり、その向こうは白亜のロシア大陸。新コースの設計に先立ち、安田幸吉はこんな抱負を語っている。
「最近のゴルフ場は大体山が多いけれどここは真っ平らなんですね。どういうように変化をもたらしたら良いかが一番の問題ですね」(『銭函五拾年』)
新コース1番ティの脇に移築された旧コース二代目のクラブハウスと、
旧コースのクラブハウスとして使われていた頃の写真 |
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昭和4年にプレーした大谷光明は「日本のセントアンドリュースにするよう努力されたい」と挨拶したという。確かにここ銭函もまた、ゴルフの原点であるリンクス(砂丘)の自然をそのままに映し、フェアウェイはうねりにうねっている。
「特に432ヤードの4番は難しく、ある意味で面白い。ナイスショットと思っても、どうにも打ちにくいところにボールが止まっていたりするんです」
石原兄弟が夢中になって小魚を追ったクリーク跡だろう、溝がコース中央を割るように走っている。そして、会報『はまなす』の昭和13年6、7月号に「石原潔素描」という一文がある。
『巨漢石原氏が其28貫を右足に托してのバックスウィングは重爆機のスタートを想はせる程男性的であり威圧的である。碧空を弧形に剪ったクラブヘッドのエネルギッシュな唸りをその儘白球に載せ、春香山頂目懸けて飛ばしてゐるのを見るとパートナーたらずともときめきを感ずるではないか。
冒頭の写真は確かにこのうねりのどこかで撮られたのだ。神戸で生まれた石原裕次郎が小樽に来たのは3歳のとき、父親が山下汽船の初代小樽支店長として赴任した昭和11年の夏のことで、東京本社に移って逗子に住むまでの5年間を北の地で過ごし、やがて『俺の小樽』を歌うのだ。
次回10月21日更新につづく
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