2001年5月、Javaコンソーシアム最後の総会における記念講演、一橋大学の米倉誠一郎教授の講演のタイトルでいちばん印象的だったのは、「IT革命は終わったどころか始まってもいない」である。
「IT革命」という言葉がキーワードだったのは、森 喜朗・前総理大臣の「イット」発言が取り沙汰されたころなので、2000年から2001年終わりにかけてのことだった。
今、振り返ってみると、果たして始まりだったのか、それとも終わりだったのか?
ITという言葉が一般化する一方、「IT革命」という言葉はあまり使われなくなった。ITが緩やかに一般化して革命的な変化への期待が少なくなったのか、それとも、革命の流れが“ユビキタス”という言葉に奪われたのか。
いずれにせよ「IT革命」は、ある人にとっては始まったばかりであり、また、ある人たちにとっては終わったものなのかもしれない。いろいろな答えがあり、結果も様々なのだ。そして、同様のことが、システム構築に関する様々な技術においても、ITキーワードにおいても言える。
それぞれ、全く異なる人間が行うことなのだから。
いろいろな答えがあってよい
画一的で常識的な答えを出すのは、「教育の問題ではないか」と憂う声もある。
幼稚園のお絵かきの時間に太陽を黄色く描いた子供は、赤く描くように先生に直されたという。昼間の太陽を「黄色い」と感じるのは普通だと思うし、いろいろな解釈があって良いはずだ。「氷が溶けると何になる」との問いに、「春」と回答した小学生は点がもらえなかった。だが、例え理科のテストであっても、半分くらいあげてはどうだろうか。
大量に採点処理をしなければならないことから、いろいろな試験の答えが一つになっていった。大学受験は、出題の傾向を分析し、出題者の意図を読んで、いかに答えを予想するかの能力を競うものとなった。
このため、一つの答えを追うことが当たり前になり、問題や課題が与えられないと何をしてよいのかすら分からない・・・などなど、日本の教育についての問題提起は多い。
ただ、このような環境にも力強く順応していくことは、その人のバイタリティの蓄積という観点からは非常に重要である。
シーラカンスの詩
「コンピュータ・レポート」という雑誌に1987年、「シーラカンスの詩」という記事が連載された。このBizTechイノベータへの連載「検証:ITキーワード」を読んでいただいた大先輩から「面白いので読んでみては」と紹介されたものだ。
シーラカンスの詩に描かれているのは、メインフレームをプラットフォームとするビジネス系システムの開発に携わった初期の人たちの、システム開発にかける熱い思いと、当時の若い世代に対する不安だ。今で言う2007年問題の原点があったわけだ。
「アセンブラで、少ないメモリーをいかに有効に使うか」が最高の美学だった人たちにとっては、メモリーやCPUをふんだんに使ってGUIを駆使する現在のシステムは許せないものだ。
初期の開発者たちは、システムの安定性にも大きな注意を払った。メインフレームを使って構築された、初期の日本の業務系システムの優位性は、国民性を生かしたきめ細かなイレギュラー処理にあったと確信している。
大企業の基幹系システムでは、プログラムのほとんど(多分90%以上)がイレギュラー処理のためのものである。このイレギュラー処理を少ないリソースでいかに深く構築できるかが、システムの安定性に大きく影響する。トラブル発生の頻度は、IBMの報告か何かを記憶しているが、米国に比べてもかなり低かった。
ITの進化はとんでもなく速いことから、この「検証:ITキーワード」で取り上げた内容も、すぐに古めかしいものとなってしまうだろう。ただ、入力された情報が変われば、ロジックは一緒でも出力は変わる。
この「シーラカンスの詩」で垣間見られるポリシーにも、しっかりとしたロジックを感じた。
最後に
読者の皆さんからいろいろなコメントをいただいたにもかかわらず、ほとんど振り返らずに最終回まで突き進んできた。原稿の説明不足を補っていただいた常連のコメンテイターの方々には、本当に感謝したい。
筆者に対する批判も多かった。
「ゼンド・オープンソースシステムズ社長」という筆者の立場が言わせている発言ではないか、との指摘がいくつかあった。
だが、それは違う。これだけは明確にしておきたい。ゼンド・オープンソースシステムズの社長だから言っているのではなく、自分がやりたいことをするために、ゼンド・オープンソースシステムズを設立したのだ。このため、どうしても自分が書いていることが、ゼンドの社長という立場と重なってしまうのである。
日常何となく思っていても、様々なしがらみがあって皆さんが言いにくいことに、できるだけ迫ってきたつもりだ。また、昔の資料にも目を通し、今日の常識とは違うスタンスや動きも紹介してきた。その意味では、自分の考えをこのようにまとめて発表できたことに、大いに満足している。
この連載について、ある友人からは、「こんなにいろいろな分野の人を敵に回すような発言をして、何のメリットがあるのか?」と指摘された。もしかすると、筆者が書いてきた内容で、気分を害された人が多いかもしれない。しかし、いろいろな考え方があるということを認識してほしい。
マスコミで報道される社会通念としての知識や常識だけで、すべてを片付けられるものではない。そもそも、皆がこの社会通念と同じように考えている訳ではない。社会通念というマジョリティの中にいれば、人は安心できるのかもしれない。だが、立場のしがらみをあえて超えて、オリジナリティ溢れる理論武装をすることも非常に重要だ。
“問題提起”と“筆者なりの答え”---しばしば不十分な答え---を書いてきた。世の中というものは、いろいろな考え方をする人がいる訳で、犯罪行為に至らなければ自由に語れるのが民主主義である。
自分の自由と他人の自由を重ね合わせれば、当然、どちらかが不自由となる。社会は、このようなたくさんの矛盾の上に成り立っている。そんな社会がどんなもので、これからどこに向かおうとしているのか、それを完璧に説明しきることは絶対にできない。
矛盾に苦しみ妥協を繰り返しながらも、できる限り理想に近づこうとするときに、過去の歴史の動きは参考となる。
これからも新たな「ITキーワード」はたくさん出現する。
読者にはぜひ、常識にとらわれない自分なりの答えを持ち、理論武装してそれを実証していくスタンスを持ってほしい。必ずや日本のため、情報処理産業のための力となっていくことだろう。そして目の前に、大きなビジネスチャンスが広がるはずだ。
筆者も、引き続き新しいチャレンジを続けていきたいと考えている。
(角田 好志=ゼンド・オープンソースシステムズ社長)
■「マスコミで報道される社会通念としての知識や常識だけで、すべてを片付けられるものではない。」
というより,そのマスコミが作り出す「社会通念」とやらが,専門家からもの笑いの種にしかならないほど,あまりにレベルが低く間違いだらけだから問題なのですが...
クルーグマンの「良い経済学,悪い経済学」では,専門家には通用しない「自称経済専門家」のことを「俗流経済学者」と呼んでいた.専門が違うのでことの真偽は断言はできないが,クルーグマン氏の主張は至極論理的で説得力がある.そういう俗流経済学者の方が無知な「善良な一般市民」に受けが良いのも,「理解しにくい専門用語を並べ立て,難しい屁理屈をこねる専門家」が「善良な一般市民」から,理論倒れで役立たず呼ばわりされたりするのも,良く理解できる.IT業界でも似たようなものだからだ.
実際にも自称IT専門家である「俗流IT技術者」や「俗流オブジェクト指向研究者」やら「俗流インターフェース専門家」がのさばっていて始末に負えないのが,日本の現状なのである.
マスコミについては,「ダイオキシン汚染ホウレンソウ」の捏造事件などは関係者が謝罪することになったばかりだし,つい先日も視聴率に対する不正操作が明るみに出た.はっきり言って,私はこれら不祥事について驚きはしない.今までの報道のレベルの低さを見ていれば,この程度のことをやっていても全く不思議はない.むしろ今度の事態で過去の問題を全てさらけ出し,一から出直す覚悟くらい持ってもらいたい.それが強大な「第四の権力」を握る権力者としての,最低限の義務ではないだろうか.
(TM:30:SI)
■「いろいろな考え方がある」は、その通りです。「オリジナリティ溢れる理論武装をすることも非常に重要」も、その通りでしょう。
この連載の中で出された批判は、角田さんとは別の考え方で理論武装をしている読者が、角田さんの理論・論調に対して、異論反論や欠陥指摘をしたケースが大多数であろうと思っています。マスコミで報道される社会通念としての知識や常識だけで投稿されたものではないでしょう。
(fusa:39:製造業情報システム部門)
■イロイロと興味深い各論に接することが出来ました。コンピュータ レポート 懐かしい名前です。ビット なんてなモノもありました。
あの頃といってはオカシナ言い方ですが、あれこれハンディーがあり(ex.IBMのマニュアルも英語版を読み尋ねても米国に問い合わせますで頓挫、やってみよう!で成功し逆にCEに教えるようなコトもありました)多くの制約条件の中で「解」を工夫していたので必然的に「これは一体全体何なのか?」と本質を勉強せざるを得なかった。その事が種々の「解」をも招く事になり多様性も育てたように思います。山の登り方は幾らでもある、と言うように。
ただそうした時代が過ぎ「解」が簡単に入手出来る様になるとブラックボックス化もあって勉強しなくなったような気がします。企業の図書室も新たな文献が並ばなくなったし、日経ビジネスが流行るに連れて学会誌:専門誌の回覧読者も減る一方。文書に使用される言葉も語彙が貧弱化し常套語:流行語(ハヤリコトバ)の書き連ねになり、当然「思索」も貧弱化しました。コトの本質を巡って会議の席上での侃々諤々も減ってきました。そうした変化は世の一般でも「画一化」となって進行したように思います。
が、実態は1人の人間が住む社会が広がり、外生函数も増える一方ですから、より一層自分なりの「軸」が無いと、判断もブレ具合も解らず向かうべき方向も見失うように思います。
物事の本質を理解して、そこから想像するコトをより迫られるように思います。そうしたことの為に、反論を恐れずに物事の多面的な観方を開陳し議論を重ねる事は大事な事と思います。「言者不知」を通過しないと「知者不言」に到らないからです。
(武蔵:62:元情報システム管理責任者)
■「「解」が簡単に入手出来る様になると」と自分の能力を過大評価したけっか。そのように誤解しただけだと思う今も謎は謎として残っているし、挑戦すべき難問など山ほどある。
「ブラックボックス化もあって勉強しなくなったような気がします。企業の図書室も新たな文献が並ばなくなったし、日経ビジネスが流行るに連れて学会誌:専門誌の回覧読者も減る一方。」
これが日本の弱体化の根元では?努力しなければ勝てるわけがない。IT業界ではあのbitの休刊という出来事が,一つの大きな節目だったような気がします。実際、仮にも「一流大学」の情報系の学生でさえ、bitを購読してる人間はおろか、知っている人もほとんどいない有様。ゲームには何万もの金をかける癖に、専門書には一銭だって出さない。
企業は企業で人事部門に専門能力を評価する能力がないから、能力よりも学歴を尊重する。これで学生に対して努力しろと言う方が無茶。
(TM:30:SI)