名義株を集め、コクドの支配権を確立
義明氏は康次郎氏の葬儀の喪主を務め、堤家の代表であることを内外に示した。
1966年8月、名義株を管理していた広尾の康次郎氏のお屋敷の分室を解散。名義株の管理は、川島喜晴氏から義明氏に移ったという。そして金庫番となったのが義明氏の側近で株式担当だった島津惇雄氏だ。
中島氏によると、義明氏はこのとき「この名義株について『どうしてこんな野暮なことをするのだろう。』とおっしゃっていたことがありました。当時、義明氏も法律に違反することだとは思っていなかったようです」(中島氏)。野暮なこととは、もちろん名義株のことだ。
その後義明氏は、中島氏らから51%の株式を持つべきではないかといった進言を受け、国立学園の株式15%と合わせて51%となるよう、36%分の名義株を自分名義に書き換えたという。1967年初頭のことだ。
「このとき、すでに退社している古い役員などの株を選び、書き換えを行いました。ただ名義を書き換えるだけでは、名義株の仕組みが税務署などに分かってしまうために、100円で買ったという形にしたのです」(中島氏)
さらに義明氏は株による支配権を強化する。
1976年2月には、役員などを対象にしたコクド役員持ち株会「国友会」を誕生させたという。名義株を集約して管理できるようにするための仕組みを整えたわけだ。国友会の設立を提案したのは、島津氏だ。
義明氏は、自己名義の株の取得、名義株を集中的に管理する仕組みの構築によって西武グループの支配を完成させていった。
この間義明氏は、事業面で派手な動きはしていない。「私の死後10年間は、新しい事業に手を出すな」という康次郎氏の遺言を着実に守った。中でも不動産買収には慎重となり、1965年の東京オリンピックの年には「不動産部門」からの撤退を宣言した。
10年間の沈黙を破った後は、セゾングループを急拡大させていた清二氏に挑戦するかのように、リゾート開発やホテル建設にまい進した。ホテル建設では、義明氏が自ら指揮を取り、内装の設計まで手掛けたという。
ただし、名義株などを使った義明氏の西武グループ支配は、いつしか義明氏自身を裸の王様にしてしまったようだ。義明氏による強引なまでのリゾート開発やホテル建設が、西武グループの経営を大きく蝕んでいった。
「華やかな拡大路線とは裏腹に、ホテルの稼働率は同格のホテルに比べ、決して高いものではなかった」(コクド関係者)
そして名義株の整理を島津氏から引き継いだ総務部次長の木内保氏が、西武鉄道の名義株事件が起こった後、自殺するに至った。ここから西武グループは転落の軌跡を描いていったのである。
(全 3 ページ中 3 ページ目を表示)
あなたのご意見をコメントやトラックバックでお寄せください
この連載のバックナンバー バックナンバー一覧へ 画面先頭に戻る
- 西武グループ再生の舞台裏 (2006/02/06)
- 西武のカリスマ・堤義明氏による支配の構図 (2006/01/30)
- 元コクド社長が語る名義株のからくり (2006/01/27)
- 堤康次郎氏の経営と西武グループ (2006/01/25)
- 堤家と西武グループ経営陣の闘い (2006/01/23)

