だが、石川たち社員のそんな努力にもかかわらず、タツノコは経営難にあえぐようになる。黄金期はとうに過ぎ去り、組織が大きくなった分、弊害が目立つようになったのだ。制作費は赤字続き。制作スタッフは心身を磨り減らし、いい人材が次々と抜けてゆく。
でも作品は作らなければいけない、という状況の中、若い石川たちには仕事がどんどん回ってきたという。
「どちらかというと異分子だから、タツノコがうまくいってる時代には出てこなかっただろうね。自分は守りが苦手で、常にアグレッシブに攻めて行かないと気がすまないタイプ。スタッフ集めや作品のコントロールも全部自分でできたから、すごくいい位置にいたと思う。みんなが『こんなスケジュールではできない』『この予算では無理だ』と言うのを、何とかして作ってみせるのが快感だった」
世間からは「タツノコはもう終わりだ」という声も聞こえてきた。だからこそ、「自分が担当している作品だけは、人が何と言おうと、精いっぱい頑張ろう」と踏ん張っていたのだ。
渾身の企画が通らず悔し涙を流す
しかし、石川の心は次第にタツノコから離れてゆく。「会社が保守的で腐っているように見えた」からだ。
「これ以上いると自分も腐ると思ったし、アニメーション自体にも嫌気がさしていた。だから部長に退職願を出したんだ。そしたら、その直後、会社がリストラの方針を出した。自分はあまのじゃくだから、『だったら逆にアニメ界に留まって、辞めさせられたいい人材を集めて一旗揚げてやろう』って思ったんだよ。タツノコを見返してやろうって」
86年の年末のこと。忘年会では会社の愚痴を言っていた石川だが、正月休みには俄然(がぜん)やる気を出して大阪や京都に出向き、目ぼしい人材を口説いて回った。タツノコが無難に作ろうとしていた『赤い光弾ジリオン』のテレビシリーズを、自分の人脈で集めた優秀なスタッフで、すごい作品にしてやろうと考えたのだ。
──自分がプロデューサーになって、『ジリオン』全31回を作ろう。30分1本で1000万円かかると言われていたものを、自分なら580万円という低予算で作ってみせる。
わずか1週間ですべての段取りをつけた石川は、正月明け、会社の経営陣と営業に談判する。だが、「28歳の若造にできるわけがない」と、会社は首をタテに振らなかった。
「世の中っていうのは、純粋に物事を考えている人間にチャンスを与えてくれないんだなと思った。それが悔しくて、むなしくてぼろぼろ泣いた。ファミレスで美術の人と話しながら涙が止まらなくて…悔しくて人前で泣いたのは、あれが最初で最後じゃないかな」
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