もともとは小屋みたいだった新宿駅や渋谷駅が、ターミナルステーションに成長。ビルになり、周りにデパートができた。これは『ミカドの肖像』や『土地の神話』でも描いた風景だ。東京発展の物語そのものだと言っていいだろう。
震災からの復興後も、東京の都心部にはある程度のすみ分けが残った。ゆえに、皇居以西がどんどん発展。皇居は、東京の「東端」から「真ん中」になった。
丸の内は三菱系の一流会社が集まる場所で、いまでいうビジネス街。そして、日本橋には日銀があり、東海道の出発点として商業的に繁栄した。浅草とか上野、あるいは隅田川周辺の東京ダウンタウン(下町)には盛り場が。そしていまの霞が関一帯は官庁街がある。
これらはみな、江戸・明治時代からつづいている場所。地方から東京に集まりつづける新参者は、自然と西にフロンティアを求めることとなった。こうした動きがあいまって、東京の西側がどんどん発展していった。
爆発的に集まってきた人口の多くはサラリーマンとなった。1920年代、大正時代の半ばには、「サラリードマン」と呼ばれていた。しかし、どうやらこれは発音しづらかったようで、いつのまにか「サラリーマン」で定着することとなった。60年代にヒットした植木等のスーダラ節でも「サラリーマン」と歌われている。
当時の職人や農民は、雨が降ると仕事がなかった。もちろん、その分の給料は保証されない。しかし、サラリーマンは「月給取り」。毎日職場に行かなくてはならないが、風邪で休んでも月給は保証される。彼らはいささかのエリート意識を持って、田園調布から丸の内に通った。
いまだ進まない、鉄道の“時間的な発展”
鉄道の運行時間の話に戻ろう。昭和5年(1930年)の時刻表を見ると、山手線の始発は4時05分で、終電は1時47分。当時からするとこれは不夜城だ。朝早くから出勤して、夜遅くまで働き、深夜までお酒を飲み、午前さまで家に帰る。いまの東京と同じだ。
現在に目を転じると、通勤圏は八王子、小田原、浦和、大宮のほうまで広がった。私鉄もさらに発達した。いまでは都営大江戸線が環状運転をするようになった。このように面や空間的には、どんどん広がっている。しかし、時間の面ではどうだろう。昭和5年(1930年)に比べて、始発・終電の時間はほとんど変わっていない。時間的な発展は一向に進んでいないのだ。
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