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都営地下鉄と東京メトロの一体化・24時間運行を考える

2007年8月21日

「目からウロコ」の第2回で羽田空港の24時間稼働が必要な理由を説いた。そのときに、周辺のインフラ整備として、鉄道の24時間運行にも触れた。今回はその意義についてさらに掘り下げたいと思う。

羽田空港の24時間稼働を実現させるには、空港までの移動手段である地下鉄やJR、私鉄の24時間運行も必要になる。いきなりすべての路線、会社で24時間運行という話ではないが、運転時間の延長などの協力がなければ羽田空港の24時間稼働は実現できない。

ニューヨークの地下鉄は既に24時間運行だ。日本の鉄道も、大みそかから元旦にかけては終夜運転を実施している。24時間運行することに、技術的な問題はない。

鉄道の運行時間に関して、興味深い事実を示そう。現在の山手線の始発は4時26分。ストップするのは深夜1時14分だ。しかし、昭和5年(1930年)の山手線の始発は4時05分。そして電車がストップするのは1時47分だった。いまよりも長い時間、電車が走っていたことになる。ちなみに、当時の東横線の始発は5時15分で終電は0時20分。地下鉄銀座線は6時30分と0時30分。現在とほとんど変わらないことがわかる。鉄道の運行は、当時から進化してないわけだ。

鉄道から見た東京の発展、皇居は東京の西端から中央に“移動”した

逆に言えば、昭和5年(1930年)の段階でこれだけ進化していたともとれる。これは、東京に活力があったからだ。1940年代の統制経済以前の日本の資本主義は、いまよりも自由主義的な活力があったから、どんどん人が集まってきた。そうなると、土地も必要になるし、輸送手段も重要になる。東急の五島慶太や西武の堤康次郎は、これをビジネスチャンスとして巨大な富を得ていくことになる。線路を延ばしたら、その周辺の不動産が売れる。また延ばしたらまた売れる。彼らの事業意欲は“強盗慶太”、“ピストル堤”と呼ばれるくらいすさまじかった。

もう少し、鉄道を中心とする当時の東京の事情を説明しておこう。日本橋、上野、浅草……当時の繁華街はみな皇居の東側に位置していた。皇居は、東京の西方に見えていたのである。皇居より西側は、いわゆる田園地帯だった。じつは、大正時代まで、山手線は旅客路線ではなかった。皇居の西側の田園地帯をただ抜けていくだけの貨物線だった。

この状態を一変させたのが、大正12年(1923年)の関東大震災である。江戸の町は火事で燃えてしまった。復興後の大正14年(1925年)に、山手線が環状運転を始めた。すると、東急や西武、東武、小田急といった私鉄が誕生し、山手線のひげのように郊外に向けて延び始めた。先ほどの“強盗慶太”や“ピストル堤”が活躍した時代の到来である。

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