“産業再生機構”として小田原藩の飛び地を再建
その後金次郎は、実質的な小田原藩領であった、野州・桜町領の再建に着手する。関東平野は大きな大名がおらず、1万〜2万石の小大名や3000〜4000石の旗本に、知行地が分散していた。犯罪などは関八州取締(警視庁が広域化したようなもの)が取り締まっていた。だが、関八州取締が担当するエリアは非常に広いので、見落としも多い。違法であるばくちなどが平然と行われて、国定忠治などの博徒が幅をきかせるようになった。そうやって村が荒れると、農民は「江戸に行けば飯が食える」と村を出て行ってしまった。
バキューム現象が起こり、江戸が膨大な人口を吸収する事態になった。その結果、関東平野の人口減少はさらに進み、村は荒れ果てた。やる気がある人間はそんな村を出て行き、残った人間は博徒ばかり。そういった崩壊した村が増加していた。桜町領もそのような村の一つだった。ここで金次郎は立て直しの実績をつくった。いまの産業再生機構と似た役割を担い、桜町領の再建を導いた。
180年を見通す「マニュアル」
桜町領の再建が終了すると、「次は小田原藩自体の改革を」という話が出てきた。しかし、こちらは、いまで言う公務員制度改革のようなもの。既得権益を持っている役人の抵抗が始まった。よそからきた民間人の金次郎に好き勝手やられてたまるかということだ。藩主である大久保忠真も、金次郎を評価しながらも「戦国時代だったら、金次郎に領土を全部取られてしまう」と言って採用をためらった。藩主忠真は行政改革には賛成だが、金次郎に権限は渡さないといったスタンスだ。権限を持たないと、既得権益を守りたい役人とぶつかってときに大なたが振るえない。当然、改革はなかなか進まない。結局は、役人との権限争いになってしまった。
その後、老中・水野忠邦に引き立てられ幕臣となる。ここでも、やはりきちんとした権限は与えられなかった。そんな折に与えられた仕事が、「日光御神領」89カ村の復興計画だ。金次郎は早速、現地に赴き調査を行おうとした。だが、幕府からの指示は「文書で提出せよ」というもの。現地の詳細な調査ができないならば、特定の地域だけではなく、日本中の藩や町、村に適用できる一定の基準、原則をつくり上げようと決意する。
金次郎はこのマニュアルづくりに7年間も没頭した。弟子や仲間を集め、一種のシンクタンクをつくり、あらゆるケースに対応できるようにシミュレーションを行った。完成した行政改革のマニュアルは、新田の開発からお金の運用について、180年先の未来まで見通したさまざまなパターンを収容している。
金次郎がこのマニュアルに記したことは、ある種の思想と言っていいだろう。抽象的な思想ではなく、実践でき応用がきく思想だ。もちろん、既得権益を持つ者との摩擦など立ちはだかる問題はあるが、その現実の壁を越えて、日本中に行き渡ることを願っていたのではないだろうか。
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