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二宮金次郎が薪を背負っている理由

2007年8月7日

今回は、二宮金次郎について取り上げる。彼は江戸時代の文化文政期を生きた。100年つづいた高度成長期が終わり、人口は減少時代に突入、経済成長は鈍化していた。ちょうど、いまの時代と同じような環境にあったのである。彼の考え方、凝らした工夫の中には、われわれがすぐにでも取り入れられるものが数多くある。

金次郎は市場を意識し、合理的に考える人だった

二宮金次郎像は、東京23区の小学校は戦後、建替えられた校舎が多いのに100校以上で残っている。戦前に創立した歴史の古い小学校にはほとんどあると思っていいだろう。僕が通っていた小学校も古かったので、二宮金次郎像が校庭の端にあった。

二宮金次郎は、戦前に修身の教科書に載っていたという理由で、軍国主義と結びつけられることが少なくない。だが、二宮金次郎と軍国主義はまったく関係がない。むしろ、二宮金次郎は、市場社会の考え方を持った合理主義者だった。

100体以上も残っている二宮金次郎像は、その証拠だ。敗戦のあとGHQは、学校に配布されていた天皇・皇后の御真影をすぐに取り払った。しかし、二宮金次郎像は破壊していない。彼は、市場社会の考え方と合理性を併せ持っており、その教えは西欧資本主義に通底する思想だったからだ。金次郎像が背負っている薪は、市場社会の考え方や合理性を象徴している。

親孝行して努力して、そして偉くなりました……では金次郎の価値はわからない

二宮金次郎の生家は神奈川県小田原市の郊外にある。酒匂川の近くに住み、父親は2.3ヘクタールの土地を耕して生活していた。いまは酒匂川と書くが、逆巻く川のことで流れは急で、大雨が降ると洪水になり堤防が決壊してしまう。二宮家の土地も被害に遭った。その復興の途中、過労のため父は亡くなり、母は床に伏せってしまう。

幼い金次郎は一家の大黒柱として、昼は薪を背負い、夜は家で縄をない、わらじをつくった。薪を運ぶ途中には本を読み、夜は、空いた土地で育てた菜の花の油をともし勉強をした。ここまで語ったあと、戦前の修身の教科書は、いきなり「のちに、偉い人になりました」で話が終わっている。肝心の、どうして、どのように偉くなったのかはわからないままだ。

こういった苦労話だけが伝えられたため、二宮金次郎は一般的に、合理主義者というよりも、親孝行のシンボルとして扱われることとなった。「親孝行をして、寸暇を惜しんで勉強をして、のちに偉い人になりました」しかご存じない方も多いだろう。重要なのは、何をして偉くなったのかなのだが……。

そこで、二宮金次郎はなぜ薪を背負っていたのかが重要となる。

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