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田中秀征:私が見た宮沢喜一さんと保守本流政治(2)〜清貧を清貧と思わない宮沢さんの人柄

2007年7月18日

(前回記事はこちら

宮沢喜一元首相の父親は、苦学して弁護士となり、戦前広島から代議士となった宮沢裕氏だ。だから、宮沢さんを二世議員と言う人もいるが、私は必ずしもそうだとは思っていない。

父親の裕氏は、戦後占領軍から公職追放に遭い、浪人していた。宮沢の政界進出は1953年の参院選。父の追放から年数を経ているし、選挙区は参院だから広島県全体である。だから父親の地盤がそれほど大きなプラスになっているわけではない。20代から国政の中枢にかかわってきた、そのときの宮沢さんの政治的位置から言って、父親の恩恵を受けなくても当選はできたに違いない。

宮沢さんは二世議員でも官僚政治家でもない

また宮沢さんは大蔵省出身だから官僚政治家の典型と見られがちだが、このことについても私は一つの理由でそう思ってはいない。

これは本人にも話してはいないが、私がひそかに「これぞ政治家の決断」と高い評価をしている宮沢さんの決断がある。私が宮沢さんを評価している最大の理由はここにたどり着くと言ってもよい。

1952年11月、ときの池田勇人通産大臣は不信任案が可決されたことにより辞任に追い込まれた。例の「中小企業の倒産・自殺もやむを得ない」という失言による。

このとき秘書官を務めていた宮沢さんは、なんと池田さんに殉じて大蔵省を退職してしまう。秘書官を辞めるだけでいいのに、役所まで辞めたのだ。これは官僚の決断ではなく、明らかに政治家の決断だ。

宮沢さんは、その時点でその後自分が何をするかは決めていなかったという。いわんや政治家になるため、選挙に出るために辞めたわけではなかった。

大蔵省を辞めた宮沢さんは、池田さんから「参院選に出ないか」と誘われる。そう言えば、公職追放に遭って家でごろごろしている父親が、それとなく国会に出てほしいようなことを言ってきた。それなら自分もやってみるか、という気になったんだそうである。

ふつうの官僚なら、辞める前に、自分の身を置く場所を決めておく。ただ心意気だけで辞めた宮沢さんには、計算のない無鉄砲な心意気がある。このことは、私が宮沢さんを理解する上で決定的なエピソードとなった。

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