その「恐怖」である。あるいは「恐い」としてもいい。
実際に、プリンタを使いにくる高校生に、あることで「失敗してもいいから、やってみようよ」といった経験がある。案の定「また説教かよ」という顔をされたが、「恐くて挑戦する勇気なんてありませんね」との反応に驚いたことがある。
考えてみれば、いまの子ども達は「失敗する恐さ」に」囲まれて成長している。小さい子ども達にも「仲間はずれ(=失敗)の恐さ」がある。大きくなっても「受験に失敗する恐さ」や「就職に失敗する恐さ」がつきまとう。
子どもだけでなくオトナだって「負け組みになる恐さ」があるし、親には「育児に失敗する恐さ」が気になる。
いつのまにか、「失敗は許されない」社会が、「失敗したら、やりなおし」という発想よりも、「失敗は恐い」という意識を強く巨大にさせてしまったのかもしれない。その結果、守りに走る。ビジネスでも子どもの遊びでも、「やってみよう」ではなく「そこそこ」とか「無難に」という風潮は強い。
その「恐怖」が攻撃に転嫁する例は多い。イジメ問題にしても、「仲間はずれ(=失敗)の恐さ」が攻撃になった側面を持つ。また、ワーキングプアや格差について問題視するのではなく、「努力しないからだ」と切り捨てる攻撃性も、「恐怖」のあらわれだろう。
仮に「自分を肯定できない」思いの自傷さえも、「失敗は恐い」がための攻撃に転嫁され、「秋葉原事件」となったとしたら、こんな悲劇はない。
もちろん、ほとんどの子ども達や青少年は、「誰かの支え」で「苦悩や絶望」から「笑顔」に変わっていく。しかし、「失敗は許されない」うえ「自分を肯定できない」思いがつづく限り、掲示板などの条件が悪循環すると、悲劇が見えてくる。
だからといって、犯人を擁護する気はない。犯人は加害者であり、被害者は、なんの理由もないまま生命を絶たれ、傷を負わされた方々とその家族である。
どんなに、悲劇的な悪循環があったとしても、犯人は加害者としての責任を一生つぐなわなければならない。(このシリーズ おわり)
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