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事件が発生したから解釈しようとすれば、このような説明になってしまう。

もし、事件が発生しない仮定で書き込みを読めば、強い偽悪的な「絶望」が気になるものの、思いこみが激しい攻撃的な書き込みでしかない。

それも犯人だけの個性ではなく、思い込みが激しく攻撃的な書き込みは、どこの掲示板にも数多く存在している。また、偽悪的な「絶望」も、いま全文を読むからであって、一つのメッセージとして直面したら、それに気がついたか個人的にも自信はない。

ここに、引き金に変わった要素がある。

コミュニケーションの失敗を認識しにくいネットの掲示板は、同時に相手の真意を理解しにくい限界を持つ。息づかいや表情が見えない文字だけで、しかも、理解は読み手に委ねられている。読み手にしても、いかに想像力を駆使したとしても、材料は、書き込みしかない。

そこで「絶望」を書いても、理解されにくいし「空しく虚ろ」だろう。それが固定化されてしまえば、たとえコメントがあっても、疑心暗鬼になって「無視」と思い込むかもしれない。

その「苦悩や絶望」のなかで「生きつづけられない」限界を、ネットの掲示板は、冷厳につきつける。書いても書いても、期待するコメントはない。攻撃的になっても、「空しく虚ろ」な「絶望」はつのるばかりだろう。「空しく虚ろ」な「絶望」に、「自分を肯定できない」思いが連鎖した行き着く先が、攻撃的な自傷としての犯行だったのだろうか。

このように受けとめるのは重苦しい。しかし、解釈するのではなく、こう受けとめてこそ、危うさの断面が見えてくるような気がする。

失敗する恐さが攻撃に変わる悲劇

しかし、まだ疑問は残る。いわゆる自傷だとしても、リストカットなどの自分自身を傷つけるのではなく、他人──それも関係のない、ただ通りがかっただけの他人に向けたのだ。

識者といわれる方々には「他人をまきこんだ自殺願望」という見解もあったらしい(ニュースショーの解説でいっていたとのこと)。たしかに、わかりやすいし図式としても明快である。

しかし、ただ通りがかっただけの他人を殺害しようとするまで、人間は攻撃的になれるのだろうか。

フォーラムの「秋葉原事件」をめぐる議論で、武田信子さん(武蔵大学教授)「(攻撃的になれるとしたら 筆者注)家族を守る意識か、恐怖しかないのでは」という趣旨の発言を思い起こしてしまう。

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