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虚ろな絶望の果てに向かわせたものは?〜ある議論からの「秋葉原事件」(2)

苦悩や絶望のなかで生きつづけられない

事件から約1カ月以上、まだまだ見えない部分がある。

一方では「ダガーナイフ所持規制」や「秋葉原歩行者天国自粛」など規制強化が報道されているが、犯人についての情報はすくない。おしなべて「『無視されたと感じ、自分の存在を示したかった』などと動機を供述。孤独感を募らせ身勝手な犯行に突き進んだ」(7月6日 共同通信)といったトーンである。

それには、どうしても違和感は大きい。

なかでも「孤独感を募らせ身勝手な犯行」には、結局は断罪だけで終わってしまう不安さえ感じてしまう。とりわけ「自分も同じ」という報道もあったのに、どうにでも解釈できる「身勝手」という言葉では、マスコミのいう「ゆがんだ犯人心理」さえわからない。

どうして犯人は、「苦悩や絶望」を「空しく虚ろな絶望」に固定化し、ナイフを準備し秋葉原に向かったのだろう。自己中心的で自分勝手と指弾しても、それを考える糸口さえも見えてこない。

そこで思い起こされるのが、紹介したフォーラムでの三好洋子さん(「憩いの家」非常勤職員)の言葉である。

正確ではないが「人は苦悩や絶望のなかで生きつづけられない」との趣旨であった。問題を抱える子ども達に向かいあってきた三好さんならではの発言だが、犯人も「生きつづけられない」結果だったのかもしれない。

犯人の書き込みから受け止められるのは、「空しく虚ろな絶望」と「誰かの支え」への渇望だろう。しかも、求める「誰かの支え」が得られないまま、さらに「空しく虚ろな絶望」は、さらに深く大きくなっている印象は強い。

それを「孤独感を募らせ」としてしまうと一面的だろう。

犯人の書き込みには、「彼女」や「友だち」が「いない(できない)」心情がつづいている。ときには自己嫌悪めいたり、ときには他人への憎悪めいたり──しかし、あくまでも「めいた」ものでしかなく、ほんとうの自己嫌悪や憎悪とは、どこか違う。

感じたままをいえば、自己嫌悪や憎悪を装って、他人との関係を求めつづけている匂いが濃厚にしてくる。その深く大きくなっていく「苦悩や絶望」のなかで「生きつづけられない」結果、犯人が選んだのが、ナイフと秋葉原だったのかもしれない。

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