「マス」が変わってきた
そういった体験談をもとに、「匿名を隠れ蓑とした陰湿な体質」を改めて指摘した。匿名であるがゆえに、率直な意見を書くことも可能にはなるのだが、一方で、誹謗、中傷、揶揄、嘲笑といったことを趣味とする「愉快犯」的存在がいかに多いか。
そうした人たちには、何を言っても通じないから、もう無視する以外にない。ブログの世界では有名な「きっこの日記」も、メール以外のコメントは受け付けていない。筆者もあまりにひどいコメントは削除しようかとも思うのだが、ネット社会の実態を示す材料になるだろうと思い、極力、削除はしない方針で臨んできた。
そうしたコメントであふれるのを「荒れる」と称するのだそうだが、残念なことにその種のコメントが多いと、「悪貨は良貨を駆逐する」のたとえの通り、誠実な意見が寄せられなくなる。
一定の品位と責任を持った意見であれば、いかなる批判でもかまわないのだが、これがぱたっと止まってしまうのだ。これまた困った事態ではある。
かつて「一人一殺を辞さず」というコメントが来たことがある。さすがにそのときは、公安筋に頼んで(新聞記者を長くやってきたのだから、その筋のルートぐらいはある)調べてもらった。某県の果樹農家で思想的組織的な背景はないから安心していていいということだった。
ちょっとした感覚や感性の違いを許さない風潮がネット社会にはある。「異論封殺」とでもいうべき体質だ。この実態をどうしたらいいのか。中国などのように公権力がネットを常時監視するといった体制は望ましくない。そこがなんとも厄介なところだ。
そうした話をして、「マス・コミュニケーション」の「マス」とはいったい何か、その受け止め方がちょっと変わってきたという自身の感覚を述べた。
新聞社にいたころはもっぱら送り手の側で、読者、つまり「マス」というのは、「つきたてのモチ」のようなイメージだった。ネットを体験して、今度は「つく前のモチ」ではないかと思うようになった。
ネット社会の構成者は、送り手にも受け手にもなり得るのだ。米粒ひとつひとつが意思を持ち始めたのである。イメージとしては、モチ米を蒸らして、臼に入れる直前の状態だ。
これは「ミニ・コミ」の集積、という感じとも違う。やはり「マス」といっていい規模に達している。
そんなことを考えながら、ささやかなネット体験を試行錯誤しながら進めていきたいと思っている。
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