「1984年」日本版への警戒心を
「車内携帯」の件はこういう記事であった。電車に乗ると、「優先席付近では電源をお切りください」「そのほかではマナーモードにして、通話はお控えください」と何度もアナウンスされる。こういう基本的マナー、社会規範に属するようなことを、車掌から繰り返し聞かされるのはどうにかならないのか、といった趣旨のことを主張した。
「たばこ1000円時代」は、超党派で議論が始まったたばこ増税案について、いまの政治社会情勢の中では実現可能性が高いのではないか、と書いた(例えばこちらの記事)。たばこ増税構想には、社会から厄介者扱いされて肩身の狭い喫煙派がなにも言えないであろうことを見越した政治的な知恵が働いている。いまや社会的勝者となった嫌煙派の声をバックに、本来は消費税論議をしなくてはならないのを回避して、当面をしのごうとする。その「政治的いやらしさ」を指摘したかった。
ここでも、「勝者・嫌煙派 vs.敗者・喫煙派」という構図のもとに、趣味嗜好の分野にずかずかと入り込んでくる「管理社会」の危うさがにじんでくる。そこを突きたかったのである。
我々は自由と民主主義を謳歌(おうか)してきたはずだ。そこには一定の社会的規律と自己責任が伴う。それは我々自身で、つまり、家庭、学校、地域といった次元での教育を通じて培っていくという不断の努力が必要だ。
そこのところでどうも何かがおかしくなっている、と感じている向きは多いのではないか。社会の基盤が緩んでいる。そんな印象が強まっているのではないか。
だが、だからといって、「管理する側」「お上」にまったく無防備に委ねてしまっては、つまるところ「1984年」になってしまう。まかり間違って「管理される気分」が心地よく感じられるような社会にしてしまったら、自由も民主主義も吹き飛んでしまう。
たかがたばこや携帯電話といったたぐいのことなのだが、その実、奥は深いのではないか。あるいは日本人の国民性そのものに触っている話なのかもしれない。強靭な共同体を形成していくために、いま何が求められているのか。重いテーマだが、そんなことを、ときには考えて見たい。
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