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構造改革をどう生きるか

知らない間に息苦しい社会が訪れているのではないか

 だが、小出氏のコラムで本当に問題になったのはその次である。

 「世界で初めて国家的禁煙運動を始めたのは、ヒトラーである」として、「同時代の独裁者、ムッソリーニもフランコも禁煙主義であり、彼らに対抗したルーズベルト(紙巻き)、チャーチル(葉巻)、マッカーサー(パイプ)はいずれもたばこのみだった。禁煙は、下手をするとナチスのように他者の存在を認めない原理主義に陥ってしまう。スー族はいま、それを憂えているのだ」と書いた。

 こうして、「独裁者は禁煙を推進した」「民主主義者がたばこを吸っていた」という話が、世の中の逆鱗に触れてしまったわけだ。

 実は、わたしもその事実には薄々気づいていたのだが、生来の小心者ゆえ、メディアでおおっぴらに書く勇気はなかった。

 よくよく考えてみると、現代の新自由主義者には、どこか民主主義と相いれないものがあることは確かだ。そして、極端な嫌煙家の言うことに、どこか独裁者的な危険な香りを感じるのはこのあたりに原因があるのかもしれない。

 断っておくが、わたしは分煙推進論者である。たばこの嫌いな人の前で、煙をくゆらすつもりはない。だが、時と場合を選んで、このささやかな楽しみを謳歌する自由は最低限保証してほしいのだ。どこもかしこも全面禁煙となっては、行き場がなくなってしまう。

 例えば、JRのホームの端には喫煙所があるのだが、喫煙所の場所を示す表示が、いつのまにか姿を消してしまっている。おかげで、初めて行く駅ではどちらの端に喫煙所があるのか分からず、たばこを吸うためにホームの端から端まで、さまよい歩くこともしばしばである。これは嫌がらせでなくてなんであろうか。

 国鉄民営化の際、莫大(ばくだい)な負債をたばこ税の増税という形で補ったのを忘れたのだろうか。そのおかげでいまのJRがあるのではないかと文句をつけたくもなる。せめて、もう少しだけでいいから、喫煙者の存在も認めてほしいのである。

 ことは、たばこに限らない。

 自分のライフスタイルと違うものを認める、つまりマイノリティを大切にするのが、豊かな社会の基本ではないだろうか。もちろん、嫌だと感じるやつがいてもいい。でも、「あいつは嫌いだけど、その存在は否定しない」というのが正しい社会のあり方である。

 だが、そうした発想ができずに、エスノセントリズムを振りかざして、自分こそが社会正義だとばかりの態度を示す人間が、ここにきて増えてきたような気がする。しかも、それに楯突く人間を袋だたきにするという傾向が顕著だ。こうした社会は病んでいるのではないか。

 たまたま、最近ではたばこが排撃の対象とされているが、やがて別のものが対象になることだろう。

 においのする人間を排除する、腹の出ている人間を排除するという動きは、既に本格化しつつある。さらに、例えば鼻毛が伸びている人間を排除する、ファッションセンスの悪い人間を排除するというように向かうのか。そうして、どんどん社会の規制の枠が狭められていくのは本当に幸せなのだろうか。

 気がついたときには、みんな清潔でおしゃれで健康的になったはいいが、少しでも規範を外れると袋だたきに遭うという嫌な世の中になっている恐れもあるのだ。いや、もう知らない間に、十分に息苦しい社会が訪れているような気がして仕方がない。

 さて、勇気をふるってコラムを書いた小出氏ではあったが、多くの批判を受けて、とうとう次のように反省の文章を書かざるを得なかった。

 「禁煙者と喫煙者の共存のために多様な選択肢が必要だということを書いたつもりだが、配慮を欠いた部分もあった。文章を訂正する必要はないと考えているが、今後、反省すべき点は反省したい」

 筆者の無念が伝わってくるようで、心が痛む。

 もっとも、このままでは、「小出氏が反省したのなら、ここまで書きたいことをさんざん書いてきた森永はどうなんだ?」と怒られそうなので、最後におわびを一言。

 「はい、森永は深く反省しております」

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