中国の庶民生活のすべてが詰まっている
とはいえ、本書を「中国貧困層・悲惨な生活実態のまとめ」とだけ読んでしまっては本書の価値を見過ごすことになるだろう。
本書で、我々日本人にとって最も興味深いのは、インタビューの端々に表れる、普通の中国人のものの考え方、生活様式、日本では知られていない社会的状況などである。本書には中国の庶民生活のすべてが詰まっているのだ。
例えば、本書の随所に「思想改造」「思想工作」という単語が出てくる。読み進めると、それが弁舌をもって相手を説得し共産党の政策に協力するようにすることだと分かってくる。
「史記」の記す、弁舌だけで合従連衡を実現した蘇秦の故事からも分かるように、弁舌は中国において重要な社会的機能を持っている。
それが、ごく普通に「思想改造」「思想工作」と呼ばれているあたりに、中国の人々の生活に、中国共産党がいかに深く浸透していたかを実感することができる。
そこに、“上訪”農民の謝民が語る、「おれの親父はもう八十歳だ。毛主席が好きで、毛主席は少なくとも幹部が好き放題に村民から奪うようなことはさせなかったと言っている。」(本書 p.339)という言葉を重ねると、中国共産党がどうやって国民党との内戦を戦い抜いたかが、おぼろに見えてくる。
あるいは、「ハトを飛ばす」という言葉。本書には、都市部で女性を誘拐して、嫁の来手がない農村部へ売り飛ばしていた男が登場する。彼は自分の仕事は「ビジネスである」と胸を張り、「『ハトを飛ばす』は大衆の怒りを買った」と言う。
「ハトを飛ばす」とは、女性が嫁になるとして農村部に行き、結納金を巻き上げて逃げ帰ることだ。元締めと女性がぐるになって行う犯罪である。彼は、自分は農民をだましているわけではないと自分を正当化する。
「ハトを飛ばす」という言葉から、我々は一人っ子政策がもたらした適齢期の女性不足が、特に農村部では深刻な状況になっていることを知ることができる。
あるいは、生涯、屎尿(しにょう)のくみ取りを生業とし、老後を有料トイレの番人として過ごす老人の話。このインタビューはトイレを通じて語る中国民衆の生活史として非常に興味深い。
1970年代に入り、屎尿のくみ取りがひしゃくから電動ポンプに替わった。ところがある日、何かがくみ取りポンプに引っかかった。汚物に手を突っ込み、パイプから異物を取り出すと、それはなんと堕胎された胎児だった。
あまりのことに怒る著者に対して老人は言う。
若いの。そう言えるのは90年代からだ。それ以前の人間で、結婚証明書がなくとも公に病院で堕胎する勇気のあるヤツがいたかい? まさに道徳的な堕落の一大スキャンダルじゃ。だから一時の過ちを犯した女の子は、みんな秘かに堕胎薬を手に入れ、だれにも知られないうちにこっそりとお腹のものを堕ろしたんだ。(中略)公衆便所が堕胎病院だったんじゃよ。」(本書 p.145)
これだけで、1970年代までの中国における堕胎のありようを知ることができる。
あるいは、1960年代を文化大革命と共に生きた元紅衛兵へのインタビューでは、毛沢東が指導した文化大革命が、末端の庶民においてはどんなものであったかをまざまざと見せてくれる。末端レベルで紅衛兵の組織は四分五裂し、お互いにテロをかけあう無茶苦茶な状態だった。同じ家族の中でも所属する分派が異なり、同じ家に住みながら家庭内で権力闘争が起きるという悲劇的というより喜劇的と形容すべき状態だったのである。
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