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書評

恐るべき「厳打」によるえん罪

 本書には政治に人生を左右された人々も多数登場する。なかでも1983年以降、中国政府が展開した「厳打」というキャンペーンによって人生を狂わされた人は、中国全土では相当数存在するようだ。

 「1983年の『厳打』運動は、中国の多くの家庭にとって悪夢だった。」(本書 p.208)と、著者は書き始める。

 この年、「二王銃撃連続殺人事件」という大事件が起きた。軍で銃の訓練を受けた兄弟が殺人事件を起こし、さらに中国全土を逃げ回り、各地の警察と銃撃戦を引き起こしたのである。

 これを受けた中央政府は「厳重に迅速に犯罪を取り締まる政策」、通称「厳打」という一大キャンペーンを展開した。

 中国の行政システムのような上意下達の組織では。上の言い出したキャンペーンは、「必ず成果を挙げなくてはならない」ものとなる。そして社会主義政策の残渣(ざんさ)で、成果は数字で表すことができなくてはならない。

 その結果、犯罪取り締まりの末端において厳打は「何人の犯罪者を取り締まったか」を競うものとなった。取り調べは正確さを犠牲に迅速化され、司法は簡略化された。その結果、恐ろしい数のえん罪が量産されることとなった。

 本書には左長錘(ズゥオ・チャンチュン)という、辛くも厳打キャンペーンから生還した人物へのインタビューが収録されている。

 2002年4月1日の晩、『“上訪(陳情)”者用簡易旅館』で話を聞いた時にも、彼の心にはまだ恐怖が消え去っていなかった。『厳打キャンペーンでは、司法は簡略化されたのです』と彼は言った。ぼくが『簡略化といっても、どの程度ですか』と尋ねると、彼はこういった。
『警察、検察、裁判所が一つの長椅子の上に並んで座って裁判をするのです。ひどい場合には一本のズボンの中でします。逮捕した当日に、何の証拠もないのに判決を下すのです』」(本書 p.208)

 左長錘は文化大革命時の下放(知識階級の青年が半強制的に農村に移住させられ、労働に従事すること)で雲南省に赴き、その後の改革開放政策と共に成都に戻ってきた知識青年だった。周囲には出会いを求める若い男女が多数いたが、出会いの場がなかった。そこで左長錘はダンスパーティを開催することを思いつく。

 それ自身は、日本の大学で軟派な学生が開催する“ダンパ”と変わるところはない。しかし、1983年当時の成都ではあちこちの役所に許可を得なければ開催できなかったのである。彼は、家の中で無許可のダンスパーティを開催するようになった。

 1983年夏、「二王銃撃連続殺人事件」の引き起こした厳打キャンペーンが最高潮に達していたまさにその時、左長錘のヤミダンスパーティは摘発された。

 警察で、左の受けた仕打ちは、単なるヤミダンスパーティ開催の代償としては重すぎるものだった。

 三日三晩の厳重な取り調べのあと、私たちは『重罪ごろつき輪姦集団』と認定されました。私の指の関節を見てください。みんな変形しているでしょう。これは箸ばさみの刑です。『審妻』という四川の伝統劇に出てくるのがこの刑です。だれがこの刑に耐えられるでしょうか?
 そのうえ、拳骨で殴られ、足で蹴られ、唐辛子入りの水を口に流し込まれました。さらに憎たらしいのは、警察が疲れると、投獄されていた労働改造犯を呼んできたことです(松浦注:著者の注釈によると、官憲は服役者に拷問を行わせることがあるとのこと)。私の生殖器には今でも傷が残っています。タバコの火を押し当てられたものです。無理やりこすって硬くさせ、亀頭を焼かれたのです。(本書 p.212)

 彼には迅速に、死刑の判決が下された。

 私は半年以上も手錠をかけられ、わきの下には傷ができ、炎症を起こし、そこが腐って膿が流れ出ました。しかしなにか書ける機会があれば、手錠をかけられた手で、背中の後ろで冤罪を訴える文書を書きました。(中略)辛抱し続けて、1983年の末、私と王翼(ダンパの共催者)の判決が変更されました。私は無期で、彼は20年になりました。(本書 p.213)

 あまりの仕打ちに耐えかねた彼は、模倣犯を装い、看守の信頼を得て、1986年1月に王翼と共に脱獄する。しかし官憲に負われて2人は川に飛び込み、王翼は水死し、左長錘は捕縛された。彼は重罪犯専用の牢屋に収監される。それは、地下10mに岩をくりぬいて作られた、小さな洞窟だった。

 私はこの中にまるまる4年も閉じこめられました。食事も排泄も睡眠もここでした。お日様を見ることなく、長さ2メートル、幅1メートルの洞窟から出ることはありませんでした。立つこともできず、腰を伸ばすことさえ無理でした。私にとって唯一の運動場は石のベッドで、腕立て伏せをし、あお向けに寝たり、起きあがって座ったり、屈伸をしたりしました。(中略)たとえ一食に二両(200グラム)の飯しか食べられなくとも、天と地がひっくり返ろうとも、目がチカチカしようとも、運動は毎日の必修課題でした。(本書 pp.219~220)

 ひどい環境で彼は体を壊した。中国の制度では、病気になった犯罪者は保証人を立てれば仮出獄できる。無期の刑を受けた左長錘はこの制度を使って、辛くも俗世間に生還できたのだった。

 左の体験は1980年代のことだが、厳打というスローガンは、1980年代から90年代にかけて折に触れて復活し、使われた。21世紀に入ってからも中国政府は厳打キャンペーンを展開しており、2002年にはアムネスティ・インターナショナルが、中国政府に対して厳打キャンペーンによる処刑をこれ以上増やさないようにという要請を出している。

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