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書評

松浦 晋也氏
2008年9月8日

「中国低層訪談録」

「中国低層訪談録」

廖亦武 著
劉燕子 訳
集広舎
2008年5月発行
4830円(税込み)

 北京オリンピックが終了した。

 既に多くの人は理解しているだろう。これからが本番だ。

 改革開放が鄧小平の「豊かになれる者から豊かになれ」という言葉と共に始まって以来、中国は世界経済へ労働力の供給地として、高度経済成長を続けてきた。中国経済のプレゼンスは拡大し、世界に冠たる大国としての中国という意識は、中央政府から一般市民に至るまでに浸透した。

 その自己認識を世界に広げ、自他共に世界の大国となるためには巨大なお披露目のイベントが必要である。それが北京オリンピックだった。

 北京オリンピックを盛り上げるため、中国政府はありとあらゆる権力を総動員した。必要な土地は住民を強制的に立ち退かせて収容した。競技施設は地方から出稼ぎに来た「民工」と呼ばれる労働者により突貫工事で完成した。完成後、民工らは北京から退去させられた。北京オリンピックの施設を建設した彼らは、中国政府が世界に威厳を示すためには都合の悪い邪魔者だった。

 会期中、多くの者が北京から退去させられた。多数いた乞食も、地方の汚職官吏を中央政府に告発するために北京にやってきていた「上訪(陳情のこと)」の人々も、オリンピックにふさわしくないとして北京を離れざるを得なかった。

 中国政府は北京周辺における自動車の交通も規制した。あまりにひどい大気汚染を、会期中だけでも緩和するためだった。テロリストの襲撃を恐れて主要施設には対空ミサイルを配備し、郊外では降雨を制御するためのロケットを打ち上げた。会場近くでは観客を圧倒するほどの警備関係者が動員された。

 オリンピックはおおむね成功したと言っていいだろう。しかし、中国政府の狙い通りに「歴史と文化を誇る、世界の大国中国」を世界に印象づけることに成功したかと言えば、かなりの疑問が残る。

 聖火リレーは、チベットの人権問題との関連で、行く先々でトラブルを起こし、「人権問題を抱える中国」を世界に印象づけた。会期中、北京でこそテロは起きなかったものの、新疆ウイグル自治区では中国からの独立を主張するイスラム教徒によって爆弾テロが発生した。

 開会式テレビ中継で華々しく打ち上げられた花火は、コンピューターグラフィックスだった。美しい声で歌う美少女の声は、別人が歌ったものに口パクで合わせたものだった。

 ここ数年、世界は幾多の中国製品によるトラブルを経験している。有毒の鉛が検出されたおもちゃ、基準以上の残留農薬を含む野菜。パナマでは、ジエチレングリコールが混入した咳止めシロップで死者がでたし、北米では中国原産小麦を使ったペットフードでペットが死ぬという事件が起きている。世界に氾濫する偽ブランド品や著作権無視のCD/DVDは、世界中の人々に「中国はフェアな商取引の相手となりうるのか」という疑念を抱かせている。もちろん我々にとっては、有毒のメタミドホスが混入した冷凍餃子の事件は記憶に新しい。

 少なくともオリンピックは、このような中国の悪いイメージを国際的に払拭するには至らずして閉会式を迎えた。

 熱狂の後には必ずリセッションが来る。既に上海の株式市場は後退局面に入っている。

 そしてオリンピックが終わった北京には、大気汚染と共に彼らが戻ってくる。働く場を探しに民工たちが、生きる場を求めて乞食や浮浪者が、汚職官吏や汚職官吏を放置する地方政府への怒りを胸にした上訪の人々が。

 今後中国がどうなっていくかを考えるためには、これらの人々――経済成長の恩恵にあずからず、貧しさから抜け出すことができないでいる人々――を知ることが必要になる。

 彼らがどんな状況に置かれており、何をどのように感じて生きているのかを理解せずに、中国の未来を考察することはできないだろう。中央政府の政治や、上海や深センといった沿岸地域の経済の状況だけでは、中国の未来は見えてこないはずなのである。

 経済成長の成果を享受することができない人々の実際を記録した本はないかと探した結果、本書に行き当たった。

 本書は中国の貧困層の中に入り込み、同じ目線の高さで彼らが何を体験し、何を感じ、何を考えているかをまとめたインタビュー集である。

 登場するのは全部で31人。浮浪児、出稼ぎ労働者、乞食の元締め、国境不法越境の常習者、売春婦、同性愛者、葬儀の時に泣く伝統的な泣き男、かつての紅衛兵、えん罪で投獄された者、法輪講の修行者、迫害に耐えてきた仏教の老僧侶やキリスト教のシスター――本書の副題「どん底の世界」は伊達ではない。紙面からは信じがたいほどの悲惨さがあふれている。人々は悲惨に打ちのめされたり、耐え難い状況と折り合いをつけてあきらめたり、あるいはあくまで不撓(ふとう)不屈に逆らったりする。

 著者もまた、ただ者ではない。著者の廖亦武(本書では老威というペンネームを使ってインタビューを行っている)は詩人。1989年の天安門事件で事件を扱った長編詩を発表したために、反革命煽動罪に問われて4年間投獄された。その後、簫(笛の一種)を吹き自作の詩を吟じる大道芸人になり、四川省を中心に中国各地を巡り、同時に最底辺の人々の間に入り込んで、本書のような中国庶民の実態をまとめた本を次々に出版している。

 本書は底本となった『中国低層訪談録』(2001年に中国で出版)、同書の台湾版、中国で地下出版された続編の「中国冤案録」(2005年)、さらに著者の手元にあった未発表インタビューを日本に住む翻訳者がまとめたものである。

 著者の本は中国では大きな話題となっているという。当局は著者の本が出版されるたびに発禁処分とするがその都度複数の海賊版が出版され、人々の間に広がっているのだそうだ。

 海賊版は著者の収入とならない。しかし著者の主張を世間に広める助けとなる。余談ではあるが、海賊版により中国の人々が本書を知るというのもまた、ひどく「中国的な現象」に思える。

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