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「風雲!風雲!小倉城!」の掛け声とともに商店街を練り歩くチンドン屋部隊。

モノと道具を再構築する

2015.10.13

「大人の文化祭」がまちの担い手の意識を変える──「風雲!小倉城」

大谷 悠

都市と事業の持続可能性

地域創生 教育 文化

2014年の春に北九州市小倉で行った市民参加型芸術祭「風雲!小倉城」は、参加者が総勢で150人ほどという小さな試みではありましたが、外部資本に頼りがちな近年の芸術祭とは異なり、「地元の人々が地元のまちをつかって地元のためにお祭りを立ち上げた」という点でユニークな試みでした。これはどのようにして可能だったのでしょうか。3つのポイントに分けてお話します。

1. 地元の人的プラットフォームの存在

「風雲!小倉城」は北九州リノベーションスクールの「公共空間活用コース」として開催されました。北九州リノベーションスクールは2011年夏に「空き家などの空間資源を活用し、地域の諸問題を解決する」ことを目的として始まったもので、年に2回のペースで北九州にて行われています。全国から「受講生」が集まり、北九州市内の空き家をいかに活用していくか、チームに分かれて具体的な物件についてアイデアと運用プランを考え、最終的に実際にオーナーにプレゼンするというワークショップです。

2014年春に初めて「公共空間活用コース」が設けられ、市内の公共空間をいかに魅力的に活用できるかということを考え、実行するという課題が課せられました。企画・運営を任された私たち「ライプツィヒ日本の家」が出した答えが「風雲!小倉城」だったわけです。私たちのチームには全国から集った18人の受講生と6人のサポートスタッフ、4人の「ライプツィヒ日本の家」関係者(うち二人がドイツ人)が集結しました。

「公共空間活用コース」のメンバー。家守舎、地元のまちづくりNPO、行政職員、建築家、学生、会社員、自営業などが集まり、うち小倉在住・出身者が約半数だった。
「公共空間活用コース」のメンバー。家守舎、地元のまちづくりNPO、行政職員、建築家、学生、会社員、自営業などが集まり、うち小倉在住・出身者が約半数だった。

リノベーションスクールを運営しているのは北九州家守舎という株式会社で、地元の建築家、起業家、研究者らがチームを組んで起こした地元企業です。家守舎は北九州市をはじめ、地元のまちづくり会社、商店会、住民団体、不動産オーナーなど非常に幅広いネットワークを地元に形成しています。

この公私入り乱れる人的なネットワークがあったからこそ、従来の行政が縦割りで管理してきた公共空間で「風雲!小倉城」のような挑戦的なイベントが可能となりました。特にお城は小倉のシンボルであり、今までなかなか思い切った使われ方はされてきませんでした。しかし小倉城の指定管理をしていたまちづくりNPOの方と、家守舎の建築家の方の個人的な信頼関係が起点となり、こんな「バカな」イベントが実現したのです。このように家守舎・リノベーションスクールが市民、行政、地元企業、海外のNPOまでを結びつける人的なプラットフォームとして機能したことで、北九州に新たな試みを生み出すことができたのです。

リノベーションスクールが人的ネットワークの基礎となった。
リノベーションスクールが人的ネットワークの基礎となった。

2. 空間を読み解き、イベントを仕掛けるアイデア

まちの歴史は、資料館や教科書で知識として勉強することが多いものです。しかしまちを丁寧に観察してみると、そこには歴史や文化を表す空間的特徴が必ず残されています。「風雲!小倉城」では、現在に残る様々な空間的な特徴を読み解き、それを人々にわかりやすく体験してもらうという点を大切にしました。

お城の空間が「戦いのため」の空間として設計されていること、戦災を免れた市場の空間が迷路のように入り組んでいること、高度成長期に計画された道路開発が人口減少期のいまでもなぜか続いていて、歴史ある街道沿いがアスファルト・ジャングルに変わりつつあることなど、その視点は様々で時に批判的です。こういったまちの特徴や変化に対し、空間的なイベントを仕掛けることで、歴史・文化・都市問題などを文字通り体で感じてもらうことを目指しました。

これは特に、まちの将来を担う子どもたちにとって重要です。まちの歴史を、体を使って汗をかいて体験することは、本やスマホで得た知識よりも子どもたちに染み込み、創造的な思考を養う大切な糧になるはずです。

城攻めのリハーサル風景。自分たちでやってみながら大玉を転がすタイミングやルールを決めていった。
城攻めのリハーサル風景。自分たちでやってみながら大玉を転がすタイミングやルールを決めていった。
地元商店の方にリアルRPGへのご協力を依頼中。快く受け入れてもらえた。
地元商店の方にリアルRPGへのご協力を依頼中。快く受け入れてもらえた。

3. 「自分たちで」「そこにあるもので」やってみるという精神

「風雲!小倉城」は、大きなスポンサーもなく、限られた予算内でやりくりしなくてはなりませんでした。しかしだからこそ、その場にあるものを使って必要な物を新たにつくりだすクリエイティビティが生まれたのです。

のぼりを作成中。文字も手描きで書いていった。
のぼりを作成中。文字も手描きで書いていった。

作業場となった元デパートやその近所の空きビルにあったモノ、拾ってきたりもらったモノなどを集め、ダンボール、新聞紙、ビニール、木材、生地などを組み合わせ、なるべく新品を買わずに、のぼり、ハチマキ、パラシュートと発射装置、巨大忍者のハリボテ、刀からはんこに至るまで必要なモノを作っていきました。忍者や袴、着物などの衣装も家守舎や関係者のネットワークで各所から借りることができ、大玉や玉入れの玉などは地元の小学校から借りてきました。元学校の先生に文字をお願いしたり、以前ゼネコンに努めていた人が率先してハリボテを作ったり、作業場の隣の焼き鳥屋さんが着付け役をかって出てくれたりと、こちらも地元の人々のネットワークによって準備が進んでいきました。

忍者の親玉を作成中。口が「パクパク」するように工夫した。
忍者の親玉を作成中。口が「パクパク」するように工夫した。

また忍者、侍、町娘などの「役者」を担ったのも受講生とサポートスタッフたちでした。彼らは、行政職員、学生、商店主、サラリーマンなどで、一人として演劇のプロはいません。ほぼ全員が経験ゼロのことで、最初は少し恥ずかしがっていましたが、一度コスチュームを身にまとい、まちに繰り出すと段々と役になりきっていくもの。特にイベントの宣伝のためにちんどん屋風にまちを練り歩いたときには、いつの間にかオリジナルの曲まで出来上がっていました。衣装や音楽によって、普段の自分という殻を破り、タガが外れて役にのめりこんでいったのです。

コスプレ自体初めての受講生たちだったが、本番では見事に忍者を演じきった。(photo: Naoto Kakigami)
コスプレ自体初めての受講生たちだったが、本番では見事に忍者を演じきった。(photo: Naoto Kakigami)

このように、芸術祭といっても仕掛ける側・作る側の主体となったのがあくまで「普通の人々」だったことが「風雲!小倉城」の最大の特徴でした。久しぶりに手を動かしてモノを作ることや、いつもとは違う「人格」でまちに繰り出すことで、「あ、自分たちにもこんなことができるんだ!」と仕掛ける側・作る側の人々がポジティブに変わっていきました。

「まちを手作りする」きっかけとしての「大人の文化祭」

イベント終了後、普段は小倉の商店街で働いている受講生の一人が、「文化祭をやっているみたいで本当に楽しかったです!」と興奮冷めやらぬ様子でおっしゃっていたことがとても印象的でした。まさに「風雲!小倉城」は、仕掛けを考え、作り、演じるということを全部自分たちでやってみるという、「大人が真剣に取り組んだ文化祭」だったのです。このような経験は「自分のまちは自分で変えられるんだ」という確信を生み、様々なかたちで人々がまちに参加する契機となっていきます。

実際に、このイベントをきっかけとして集まった地元市民の何名かは、その後のリノベーションスクール「公共空間活用コース」にも参加していて、商店主や行政職員からなる、まちのイベントを担う市民のネットワークを形成しています。また、あるサポートスタッフの方は夢だった移動式カフェの活動をイベント後に始め、今では小倉を始めとした様々なイベントに参加し、こだわりのコーヒーを振る舞っています。彼らは『風雲!小倉城』の成功体験をきっかけに、まちに関わることの楽しさに気づき、自ら実践を始めているのです。

結局、このお祭りを一番楽しんだのは仕掛ける側のメンバーだったのかもしれない。
結局、このお祭りを一番楽しんだのは仕掛ける側のメンバーだったのかもしれない。

お祭りは本来、まちの空間を使って地元の人達が自分で考え、立ち上げ、執り行うものです。外部のイベンターにお金を渡して丸投げするものではありません。この本来的な意味での地元のお祭りは、また「まちを手作りする感覚」を取り戻すところから始まるのではないか。「風雲!小倉城」は、そんなことを示しています。

「風雲!小倉城」の記録冊子&DVD。詳細はこちらから。
「風雲!小倉城」の記録冊子&DVD。詳細はこちらから。
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