「電動車両も電池の開発も、中断されてしまうかもしれない。いや、それ以前に日産そのものが、もつのだろうか。仮に自分たちのテーマが継続できない事態になっても、やむを得ない」
日産自動車の宮本丈司は、強烈な危機感に襲われた。電池エンジニアである宮本だけではない、多くの日産マンは同様の思いだった。
1999年3月、仏大手自動車のルノーから資本注入を決めた日産。同年3月末時点での有利子負債は3兆6200億円(販売金融含む)に達し、国内工場の稼働率は53%にまで落ち込んでいた。キャッシュも、工場も、回っていなかったのだ。
ルノーから当初はCOO(最高執行責任者)として乗り込んだカルロス・ゴーンは、99年10月18日、再建策「日産リバイバルプラン(NRP)」を発表する。村山工場閉鎖をはじめ、2万1000人削減などが盛り込まれた大胆なリストラ内容だった。
電動車両の開発において、日産は電池だけではなく、モーターやインバーターも社内開発していた。が、会社そのものの存亡がかかるなかで、開発プロジェクトに予算が割り当てられる見通しは皆無に近かった。

















