高田 康成
東京大学大学院教授・同グローバルコミュニケーション研究センター長

 明治時代、性急な近代化に際して、大学が果たす役割は多大であった。なにしろ西洋から多大な知識と技術を早急に学ばねばならないという事情もあり、即席に大学らしきものを造る必要があった。そのため、いわゆる「お雇い外国人」を多く雇用した結果、大学はさながら「洋学校」の様相を呈した。教育言語は、当然、英語が主流となる。

近代化対応は大学が牽引した

 それに対して、独立国家としての意地とプライドを抱く多くの方面から批判がなされたとしても、無理からぬこと。実際、明治13年(1880年)には、東京大学は依然として「洋学校」に過ぎないという批判が高まった。それに応えて、当時の総長職に当たる大学総理の任にあった加藤弘之は、次のように言う。

東京大学ニ於テハ、方今(ほうこん:ルビ)専ラ、英語ヲ以テ教授ヲナスト雖モ、此事決シテ、本意トスル所ニアラス、(中略)将来教師ト書籍ト俱(とも:ルビ)ニ、漸漸(ぜんぜん:ルビ)具備スルニ至レハ、遂ニ邦語ヲ以テ教授スルヲ目的トナス。(天野郁夫『大学の誕生』(上)中公新書、2009年、50頁)

 現状では仕方なく英語で教育を行っているが、これは本来の姿ではない。次第に人材も教科書も整うので、将来的には日本語での教育を目指すという趣旨である。この加藤の発言は、言うまでもなく、その後の国家的方針となった。その後開設されることになる東京帝国大学においては、たとえば英文科のラフカディオ・ハーン(1896~1903在任)の後任は夏目漱石が取って代わった。国産品愛用である。

 以来、この帝国大学英文科の国産化に象徴されるように、教育研究の基幹部分は縦文字で行われることになり、敗戦を経ても変わらず、延々と今日に至っている。近代化対応は見事に果たされた。