高田 康成
東京大学大学院教授・同グローバルコミュニケーション研究センター長

 グローバル化に対応することが、日本全体に求められている。経済分野を筆頭として、その要請の矛先は当然、大学にも及ぶ。なかでも目に付くのは、「英語による授業」(「英語を学ぶ授業」ではない)の拡充と「日本人学生の海外留学」の促進ということである。

 これら2点は、以前に唱えられた「英語が使える日本人」計画あるいは「受け入れ留学生数の倍増」計画の場合とは性質を異にする。例えば「英語が使える日本人」計画は、実質的に従来の英語教育(「英語を学ぶ」授業)改革を踏襲したに留まる。また「受け入れ留学生数の倍増」計画は、かつての中曽根内閣時に提唱されたいわゆる「留学生10万人計画」の延長線上にあったにすぎなかったからである。

 つまり、これまでの要請がいわば「内向きの国際化」対応であったのに対し、今回のグローバル人材育成の大号令は「外向きの国際化」を標榜する。この「英語を学ぶ授業」から「英語による授業」への変更、そして「受け入れ留学生倍増」から「派遣留学生倍増」への変化の裏には、一見して想像しうる以上に、根本的な大転換が隠れていることを見逃してはならない。

 その大転換とは、一言でいうならば「『近代化』という世界的な大運動が本当に終わりつつある」ということである。今更なにをとぼけたことを言っているのだ、と識者は思うにちがいない。われわれ(日本人)は「近代化」を果たして久しく、その挙句に今グローバル化に晒されているのであって、繰り言は無用、と。しかし、「近代化」の残滓は、まだまだいたるところで保持され、守旧勢力として影響力を発揮している。

「英語による授業」が惹起する諸問題

 大学では、カリキュラムの約半分を「英語による授業」にすることを目標設定とせよ、とグローバル人材育成計画の大号令は唱える。約「半分」というのは理由がよく分からないが、総論としては私も個人的に賛同する。一方、大学側に目を転じると、さてどの教科についてどのように(what & how)「英語による授業」を開講したらよいものかと思案するとき、たちまちさまざまな問題が立ち現れることになる。

カリキュラム編成における英語の壁
 その第一は、カリキュラムの内容をどうするのか、という問題である。現行の枠組みを基本的に墨守するのか、あるいはやはり根本的な見直しが必要とされるのか。これがまず問われることになる。
 主に理工科系の学科では、前者の墨守型でかなりの程度対処しうるのではないかと思われる。その場合でも、誰が英語カリキュラムを担当するのかという困難は立ちはだかる。一般に、理工系の学問は英語で行われており、その教育の英語化は容易と思いがち。しかし、一部の例外を除いて、実情は想定外に困難な状況にある。
 大学教員が英語による授業に困難を抱えているとするなら、日本人学生の英語力は言わずもがなの状況にある。となれば、母語による高い伝達度と教育効果を犠牲にしてまで、ことさら「英語による授業」を行わなければならない理由は、いったいどこにあるのだろうかという、もっともな疑問が呈されても仕方がない。「グローバル人材育成」の理念は、この理由をきちんと説明するものでなければならない。