サイパン、テニアンも占領され、不沈空母による本土空襲は定期便化していた。トラックが毎日のように京浜地帯から列をつくって山梨や長野に工場疎開の荷を積んで引っ越しを始めたのはそのころである。日本測定器工場もこの列にまじって長野県須坂の製糸工場に疎開した。
工場の拡充や疎開などに要した資金は満洲重工業の三保幹太郎氏から出資してもらった。須坂工場は約7万平方メートル(2万坪)のりんご園を持つ製糸工場を改造したものであるが、この時の資本金は250万円になっていた。資本金の大部分は三保氏の満洲投資証券が持っていた。
信州へは東京月島工場の工員の大部分をつれて行き、元女工員の宿舎に入れたり、農家のあき間をあちこちで借りて工員を住まわせたが、地元の採用者を含めて800名という大世帯になった。ここでは空襲もなく、加えて食糧事情もよかったので生産意欲はぐんぐん上がった。
このころのおもしろい製品は得意の音叉を使った秘密通話装置で、普通の電話機にこれをつけると途中で盗聴しても何を話しているかわからず、受ける側で同じ装置をつけると普通の話に復元するもので、関東軍などでずいぶん使われ、スパイ防止に役立ったようである。
![]() |
全文は日経Bizアカデミーでご覧いただけます。 全文閲覧には無料の会員登録が必要な場合があります。 |
|---|







