私のアート商会時代は6年続いた。その間、悲喜こもごものいろいろな苦闘談、失敗談を残した。

本田はアート商会の徒弟時代、主人の榊原兄弟を手伝ってレーサーのカーチス号をつくり、レースにはライディングメカニックとして同乗し、大正13年(1924年)11月23日の第5回日本自動車競争大会で優勝した。中央が本田宗一郎。左はアート商会経営者・榊原郁三氏、右はドライバーの榊原真一氏。
私はいなか出だし、こづかい銭もたいして持ってなかったので、遊びに行くといってもせいぜい浅草ぐらいなものだった。ある休日、浅草に行こうとすると、兄弟子が「オイ、電車にただで乗せてやる。おれのあとについてこい」と言う。「電車から降りるとき、おれのあとにくっついて右手のこぶしをあげ、親指をうしろに向けてさしながら降りるんだ」というのである。
浅草に着いて兄弟子が先に親指でうしろをさしながら電車から降りて行った。そのすぐあとを私も兄弟子にいわれた通りこぶしの親指を曲げて降りた。うまくいったと思った瞬間、車掌に「もし、もし」と呼び止められた。無賃乗車計画はみごとな失敗だった。それもそのはず、私のうしろからはだれも降りてこなかったのである。結局、兄弟子の分まで払わされた。
浅草で思い出すことはスイカである。そのころ浅草へ行って何か食べるのが楽しみの一つだった。といっても屋台みたいな店でせいぜい10銭ぐらいのものを食べるのが精いっぱいだった。
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