義足は道具か、それとも身体か──喪失が新しい創造の場所になる
第5回 プロダクトデザイナー・山中俊治×小説家・平野啓一郎氏
プロダクトデザイナーの山中俊治氏と小説家の平野啓一郎氏。異なる世界で活躍していた2人が出会うきっかけとなったのは、山中氏が中心になって進めている陸上競技用の義足開発プロジェクトだった。平野氏が、義足をデザインすることになったプロダクトデザイナーを主人公にした小説を書く過程で、山中氏の取り組みを知った。義足は着ける人にとってどういうものなのか。義足のデザインを通して、身体とモノの本質的な関係が浮かび上がる。(構成:太田憲一郎=日経デザイン)
道具は1つの用途でしか使われないが、腕や脚は様々な用途で使われる
平野 道具と身体の関係を考えていて思ったのは、すごく乱暴な言い方ではありますが、道具は基本的に、一義的なものだということです。栓抜きは、ビンの栓を抜くことを目的としていて、机は何かを載せることを目的としています。世の中には、多くの種類の一義的な道具があふれかえっていますが、身体というのはそういう多様な道具に対応しないといけないので、常に多義的です。
手の用途は、鉛筆を握るためとか、子どもの頭を撫でるためとか様々で、一義的に決定できません。1つの身体の部位に対して、多くの道具がある。つまり身体と道具は、常に1対多の関係にあります。
義足を道具として考えると、一義的な物になってしまう。しかし、身体の一部である脚とするなら、多義的でなければいけない。つまり歩けるのと同時に、異性を魅了したり、子供に膝枕をしたり、といったことも出来ないといけない。そこのところが、義足をプロダクトとして考えるときに難しいところだと思っていました。
そもそも人間という存在自体が、いろんな他者、いろんな場面に関わっているから多義的な存在です。1対1の恋愛関係の中で、自分を愛してくれる存在として相手を一義的に規定しようとするけど、相手の多義性に翻弄されていくというのが『かたちだけの愛』の内容でした。
人間の耳は、日常生活の中で、多義的な世界に対応できるような形になっていて、たとえば、クラシック音楽を聞くためだけに特化した形にはなっていない。音楽をより楽しむためには、結局は、アタッチメントのような部品を耳に装着して、その都度、耳を一義化するしかない。そのへんのことが、耳に装着する製品の発想にベースにありました。
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