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芦田宏直の「ストック情報武装化論」ビジネス

情報武装化論:第9回 ストック論としての存在論(2)(1/11ページ)

「死への存在」再論──さて、ウーシアはどこへ行ったのか。

2010.09.27

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 ラテン中世でウーシアがessentia(エッセンチア)と訳されたことは、決定的なことだった。

※この連載の第8回(ストック論としての存在論(1))のこちらを参照のこと。

 この中世のウーシア→essentia(エッセンチア)は、われわれ近代人さえもが使う英語の「本質」(essence)という言葉にまで響いているが、ギリシャ語のウーシアの意味はほぼ消えている。

 essentia(エッセンチア)は、essentia/existentiaというようにexistentia(現存)との対立の中でしか取り上げられなくなった。existentiaは、英語でexistence。つまり実存主義の「実存」にまで影を落としている。

 サルトルに及んでは、「実存は本質に先立つ」とまでその対立を強化したのだから、ウーシアはますます片隅に追いやられたのである。考えようによってはフッサール現象学における「現象」も、「本質-現象」の近代的な反ウーシア動向の流れの中で理解されている場合もある。現にサルトルの実存主義もフッサール直系として位置づけられているのだから。

主観の登場 ―「救いの確実性」から「私の確実性」へ

 しかし、この問題は単純ではない。

 デカルトが、「われ思う故にわれあり」で発見した〈主観(subject)〉は、ある意味でessentia/existentiaの対立を統合し、存在者の存在は人間の自我となった。すべての存在者は、この自我の表象=対象となる。

 自我(われ)は、Subject (Sub-ject)として「下に-投げられて横たわっているもの(sub-jectum)」となった。ウーシアは、近代的にはSubject (Sub-ject)となったのである。存在者はそれに応じて「対抗して投げられたもの(ob-jectum)」「対-象」となる。

 「明晰判明な」「確実性」が、デカルトにとっての「真理」となる。中世までのキリスト教的な救いの確実性が、主観の「明晰判明な」「確実性」に取って代わった。形而上学のギリシャ的なmeta、あるいは「プローテーピロソピア」が超感覚的な神学的「trance」に変わっていったものが、デカルトにおいては主観の「確実性」となる。

 ここで自然学との対立としての形而上学は、ほぼ姿を消した。デカルト的な「確実性」は、自然学、倫理学(人間学)、神学、そして形而上学の境界を取り払ったと言ってもよい。

 このデカルト的な「確実性」こそが、サイバネティクス(ウィーナー)以降の、人間、動物、機械、あるいは人文系と自然系学問との諸区別、諸対立の解消、つまり統合的な学問形成動機の源になっている。

※ハイデガーは、「救済の確実性の探求(ルター)」や「自然の数学的確実性の探求(ガリレオ)」に連なるこの確実性の起源を、オッカムの形式主義(語と物との名目論的区別)に求めているが、これ以上はここで追わない。

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