「オンライン自己」と機能主義
「オンライン自己」の出現は、「自己関係」「他者関係」を過剰に意識する若者たちを生み出してきた。「関係」が重要という思想は、すでに1990年代初期からのコミュニケーション能力の尊重(他者関係論)、自己啓発書(自己関係論)の隆盛において前面化している。
メディア論的にも、Windows95以降のインターネットの興隆、携帯電話、ブログ、ミクシー(mixi)、Twitterへの流れは、一言で言えば、電気冷蔵庫の電流24時間制(24時間性?)がサーバーの24時間稼働に変遷を遂げたというここ半世紀の流れだが、この24時間サーバーが人間の心理に与えた影響は、冷蔵庫の登場とは比較にならない。
人々は、24時間自他の内面を管理し、かつてならば男女関係の機微としか言いようのないほどの細やかな配慮を自他に施し始めている。
若者たちが恋愛を「うざい」と考えるのは、彼らが恋愛から遠ざかりつつあるのではなく、恋愛関係に近いほどの緊密な交友関係を日常的に強いられているからだ。「メール返信を1分以内にしないと友達に嫌われる」というように。人が近づくと「瞬時に」開く動作をする自動ドアのフィードバック制御にそれは似ている。
国家関係も社会・経済関係も家族も男女の対の恋愛も「n個の関係」に平準化され、平準化された分、より複雑で緊密な関係を強いられている。
この関係主義がそうたやすく崩壊しそうもないのは、第二次大戦直後に発表されたウィーナーのサイバネティクスを由来とする機能主義にもとづいているからだ。
機能主義は、まさに関係主義の権化とも言える。一言でその思想を集約すれば、機能主義とは「中味を問わない」思想のことである(「機能主義」については、第5回、第6回、第7回を参照のこと)。
inputとoutputとの両端だけが重要なのであって、その中間(中味)の存在をとりあえず不問にする思想が機能主義。そうやってアラン・チューリング(チューリングテスト)は関係主義的に反応する機械と人間とを区別する理由はないと考えたのであった(第5回を参照のこと)。臓器移植もまた中味は何であっても(誰のものであっても)、結果的に(関係論的に)人体に「適応」すればそれは個体である(私「である」)という思想。免疫制御技術とは、身体のn個化のことなのである。




