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芦田宏直の「ストック情報武装化論」ビジネス

情報武装化論:第2回 iPad現象と電子書籍の現在(1/7ページ)

2010.06.09

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 古典と呼びうる芥川賞的な「純」文学と直木賞的な「大衆」文学とは何が異なるのか?

 両者に截然(せつぜん)とした差異があるわけではないだろうし、サブカルチャーの水準は従来よりははるかに高度化しているが故にますますその差異を見極めることは難しいだろう。

「古典」とは何か―反復読書としての古典

 しかしにもかかわらず、その差異は相対的には存在している。

 敢(あ)えていえば、古典としての純文学は反復読書に耐えうるものということだ。何回もの読書に耐えうる一冊の書物、それを古典という。

 何回もの読書に耐えうるというのは、何を意味しているのか。それは読む度に〈そこ〉に何が書いてあるのか、その意味が変わるテキストが存在しているということだ。

 だから、人は何回もその書物に向かう。若い頃に読んだその本に思わず線を引いた箇所が、20年経ってふたたび読み戻ったときに、なぜこんな箇所に自分は線を引いたのかと不思議に思うくらいに文面の意味は異なって見える。それが古典だ。

 マルクス主義文学論が盛んなころ、古典文学における文学的な普遍とは何かが盛んに議論されていて、当時の論客の一人小田切秀雄(当時は法政大学教授)などは「人類学的等価」などという今から思えば陳腐な普遍価値論(歴史、民族を超えて人類に共通な価値に触れ得た文学こそ古典という)に言及していたが、それはロマン主義的な「等価」論だった。

 しかし事態は逆である。古典が古典的に永続的に引き継がれるのは、その意味が読む度に相貌を変えてくる豊穣さを有してくるからだ。古典的価値とは「等価」ではなく「異」価なのである。

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