今年は太宰治の生誕100年にあたる。関連書やイベントが相次いでいるほか、テレビでも特番が組まれている。太宰については、僕が2000年に書いた『ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫)で玉川上水心中事件の背景を謎解きしつつ、太宰の素顔に迫った。先日、NHK BS ハイビジョンの太宰特番収録に出演するにあたって、『人間失格』を読み返してみた。
逆説の世界に生きた太宰治という作家
あらためて読んでみると、構成がうまい。作者である「私」が、「はしがき」と「あとがき」を書き、そのあいだに「第一の手記」から「第三の手記」がはさまれている。「私」は、「大庭葉蔵」という男の手記を手に入れたという体裁である。「恥の多い生涯を送って来ました」という文章で、「第一の手記」ははじまる。
「また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には『空腹』という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです」(『人間失格』)
太宰の表現は逆説的だ。「空腹という事を知りません」というのは、普通の人間はガツガツと食っているけれども、自分は違うという意味である。動物は無意識だから、いつでもイヌのようにガツガツ食べる。しかし、意識が発生すれば動物のようにガツガツとは食べない。自分はそうだと、わざと逆説的に言っている。
「小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
自分だって、それは勿論、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。(略)めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分に不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋で、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。
つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。(略)隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨な阿鼻地獄なのかも知れない(略)。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです」(『人間失格』)