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いまどきのオトナ、いまどきの子どもライフ

「学級委員長」の復活と本当の平等(1/5ページ)

2009.02.18

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みんな同じで「差がない、違いがない」が平等なのか?

 鳥取県の公立小学校で20年ぶりに「学級委員長」が復活するらしい。はじめは、正直なところ「20年もぉ?」と「いまどきぃ!」であった(参照 小学校に「学級委員長」不在の鳥取県、20年ぶり復活へ asahi.com 2月8日)。

 ところが、そのasahi.com のニュースから4日後、「鳥取の小学校は『学級委員長』なし 『なれない子供が傷つくから』?(J-CASTニュース 2月12日)」を読んで、新しい疑問がわいてきた。J-CASTニュースで「リーダーを決めれば差別につながる、との抗議を人権団体などから受け自粛した結果なのだそうだ(同)」の「人権団体」に対する「?マーク」に近い。

 あえていえば、「そんな人権団体あり?」である。ホームページがあるならば、実際にナマの主張を知りたいという気もした。

 なにしろ、asahi.com の報道によれば「学校現場の『平等主義』」の例として、徒競走や学芸会が伝えられているし、J-CAST でも「全員が同時にゴールできるように」とあるのだ。

 というわけで、鳥取市教育委員会学校教育課に電話で取材したところ(忙しいなかありがとうございました)、「人権団体とも交渉し『苦情は受け付けない』と突っぱねたのだそうだ(J-CASTニュース 2月12日)」は、少しニュアンスが違うようである。「あくまでも自主的判断で決定したこと(鳥取市教育委員会学校教育課 談)」で「『突っぱねた』とされるのはちょっと(同)」と戸惑い気味であった。

 もちろん、抗議した「団体」に別方面から取材したのかもしれない。また、団体も主張は自由であるし、「順位のつかない徒競走」や「主役は交代で」を支持する意見も、全面的に切りすてるわけではない。

 ただ、「?マーク」になるのは、「順位のつく徒競走」や「主役や脇役」が平等ではないという発想である。徒競走ならば、一定の距離を走るという意味で平等であり、「ぼくイチバン、わたしニバン」は、走るスピードの違いである。演劇は、もっとわかりやすい。「名脇役」という言葉があるように、ひとつの演劇を完成させるためには主役や脇役も平等であり、ともに必要不可欠な存在である。

 そのことを忘れて、「順位」や「主役や脇役」が不平等とするのは、それをヒエラルキーのように固定化して思いこんでいるように感じてしまう。しかも「順位のつかない」とか「主役は交代」としてしまうと、「互いの違い」を認識し「認めあう」という平等の原則を、子ども達に教える機会を失う心配もある。

 それでは「平等」を「違いがない」と勘違いしてしまうのでは──そんな気がしてならない。

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